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アクスム

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ステッレから転送)
世界遺産 アクスム
エチオピア
巨石柱ステッレの屹立
巨石柱ステッレの屹立
英名 Aksum
仏名 Axoum
登録区分 文化遺産
登録基準 (1), (4)
登録年 1980年
公式サイト 世界遺産センター(英語)
地図
アクスムの位置
使用方法表示
シオンのマリア教会

アクスムアムハラ語:አክሱም、: Axum: Axoum: Aksum)は、エチオピア北部の街。アドワ山地の麓に近いティグレ州メハケレグナウ圏 (英: Mehakelegnaw Zone) にある。

かつてのアクスム王国の中心地である。この王国はイエス誕生の頃に勃興(ぼっこう)し、在りし日のペルシャ帝国に対抗する東ローマ帝国の半同盟国として、海上貿易で栄えたキリスト教国であった。

しかし7世紀に没落し、原因は不明だが、もっぱら岸伝いの近海を進んだ貿易船の航行がイスラームの台頭により妨げられたため、アレクサンドリアコンスタンティノポリスなど主要市場との関係が絶たれて衰退につながったと推測されている。王国の競争力が衰えるとアスクムの地位も落ち、エチオピア帝国の中心地は内陸部にシフトした[1]

2015年の人口は6万6800人[2]。75%がエチオピア正教徒で、残りはスンニ派ムスリムや非正教系のキリスト教徒である。

Dungur

1980年にユネスコ世界遺産に登録された。

調査

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イギリスの探検家セオドア・ベント英語版メイベル・ベント夫妻は1893年2月、船で紅海西岸のメッサワ英語版に入り、陸路でアクスムとイエハ英語版の発掘に臨んだ。域内の交易史初期に、紅海の東西で交易が行われた証左を求めた調査である[注釈 1]。アクスム到着は同月24日頃[4]だったが、イタリアの植民者と現地の戦闘集団との緊張が高まったため調査は取りやめ[注釈 2]第一次エチオピア戦争の成り行きを見守るほかなかった。3月末には急きょ撤収を決め、ズラ経由でイギリスへ帰国、調査行を上梓している[6][注釈 3]

気候

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ケッペンの気候区分温暖冬季少雨高地気候 (Cwb) に属する[10]

アクスムの気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
平均最高気温 °C°F 25.9
(78.6)
27.2
(81)
28.6
(83.5)
29.4
(84.9)
28.8
(83.8)
27.0
(80.6)
22.5
(72.5)
22.3
(72.1)
24.8
(76.6)
26.3
(79.3)
26.8
(80.2)
25.7
(78.3)
26.28
(79.28)
日平均気温 °C°F 16.7
(62.1)
17.8
(64)
17.7
(63.9)
21.0
(69.8)
20.8
(69.4)
19.7
(67.5)
17.2
(63)
17.4
(63.3)
17.9
(64.2)
17.9
(64.2)
17.4
(63.3)
16.2
(61.2)
18.14
(64.66)
平均最低気温 °C°F 7.5
(45.5)
8.4
(47.1)
10.8
(51.4)
12.7
(54.9)
12.9
(55.2)
12.4
(54.3)
12.0
(53.6)
12.6
(54.7)
11.1
(52)
9.6
(49.3)
8.0
(46.4)
6.7
(44.1)
10.39
(50.71)
降水量 mm (inch) 3
(0.12)
2
(0.08)
9
(0.35)
27
(1.06)
31
(1.22)
67
(2.64)
221
(8.7)
199
(7.83)
67
(2.64)
12
(0.47)
13
(0.51)
1
(0.04)
652
(25.66)
出典:Climate-Data.org(海抜:2133m[10]

人口

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歴史

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アクスム王国はゲエズ語と呼ばれる固有の文字言語を持ち独自の建築様式を発達させており、それを代表する巨大なオベリスクの最初期の例は紀元前5000年から前2000年まで遡る[11]。この王国はエザナ王の時に最盛期を迎えた。公式にキリスト教に改宗したのもこの時期で、エザナ王にも「アブレハ」という洗礼名がある[12]。初期の伝道を行った人物としてエチオピアの大主教フルメンティがいる。

エチオピア正教会シオンのマリア教会英語版の小礼拝堂にかつて契約の聖櫃があり、モーセの十戒を刻んだ石版を納めていたと主張している。この教会はファシリデス英語版帝の治世まで数世紀にわたり代々のエチオピア皇帝が来拝し、中断の時期をはさんでヨハンネス4世から帝政の終焉まで再び歴代皇帝が通っていた。アクスムはエチオピア最高の聖地であり、重要な巡礼地とされる[13]

重要な祭事であるティムケット祭(T'imk'et Festival, 正教会でいう神現祭、西洋世界でいう公現祭)は例年1月19日に行われ、11月下旬にマリヤム・シオン祭(シオンのマリア祭)を祝う。

1937年に1700年前のオベリスク(全高24m)をイタリア軍が3分割し、ローマに持ち帰った。このオベリスクがアクスム王国最盛期の技術の最良の例証の一つであることは衆目の一致するところであり、1947年に国連はオベリスクがエチオピアに返還されるべきであると決議した。しかしイタリアは承諾せず、両国政府の長い外交交渉の末に、2005年に返還された[要出典]

遺跡

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ステッレ

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ステッレ

アクスムで特徴的な遺構はステッレと呼ばれる1700年ほど前のオベリスクで、エチオピアの人々にとって愛する祖国の象徴である[14]。いちばん多く残る北ステッレ公園(: Northern Stelae Park)に立つエザナ王のステッレ英語版は全高24 m、長さでは33 mの大ステッレ(英語)が1番目ではあるものの、後者は建設中に倒れて壊れたと伝わるとおり地面に横たわっている[15]イタリア軍駐留時代の1937年に国外に持ち出されたアクスムのオベリスク英語版は、エチオピアが国際連合を介して交渉を続けて2005年に戻されると、再建工事を施され2008年7月31日に完成した[14]。2番目に高いエザナ王のステッレ英語版についでさらに3基が立つ[16]。ステッレとは墓標だったようであり側面に建物を思わせる窓型を彫り込み、また痕跡から鋳金の円盤を取り付け、そこにも建築的な要素の彫刻があったと考えられる。

北のステッレ群に対して、市街地の西にたたずむ女王ガディット英語版のステッレ群では、そこかしこにある墓は4世紀に作られた。

北ステッレ公園の巨石柱(アクスム)
名称 高さ(m 幅(m) 奥行き(m) 重量(t 備考
大ステッレ 33 3.84 2.35 520
アクスムのオベリスク 24.6 2.32 1.36 170
エザナ王のステッレ 20.6 2.65 1.18 160 前面の基壇上面からの高さ
18.2 1.56 0.76 56
15.8 2.35 1.0 75
15.3 1.47 0.78 43


他の史跡

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モーゼの石版を納めてあったという小礼拝堂(シオンのマリア教会の礼拝堂)

アクスムのその他の見どころに皇帝ファシリデス(英語)の時代のシオンのマリア教会(英語)(1665年献堂)があリ、創建時はエザナ王の時代にさかのぼる。最初の礼拝堂は何度か増築を重ね、ついに身廊が12列ある壮麗な建築になったという。ガディットに焼かれてから再建、1500年代にアダルとの戦役Abyssinian–Adal war(英語)で破壊された。皇帝 Gelawdewos(英語) が建て直しに取り掛かり(完成は弟で皇位継承者のミナスMenas of Ethiopia、その建物を皇帝ファシリデスが新しく建て替え、現在に至るという。マリア教会は男性信者のみ堂内で礼拝できる(ガディットが本来の礼拝堂を焼き落とした時の因縁が残るとも伝わっている。)

隣に立つ教会は「新シオンのマリア教会」The New Cathedral of St. Mary of Zionと呼ばれる。エチオピアをファシストの手から守ってほしいと祈り、願いがかなえられた皇帝ハイレ・セラシエ1世が1955年、ネオ・ビザンチン様式を採用して着工させた。こちらは女性の礼拝を受け入れている。イギリス女王エリザベス2世のエチオピア公式訪問を受けた時期に新堂の献堂式を迎えたハイレ・セラシエは、外交日程を中座して教会へおもむくと自ら祈りを捧げて、エチオピア帝国にとってどれほど重要な存在であるか示した。数日後にイギリス女王もこの教会を訪れている。

新旧のマリア教会に挟まれた小礼拝堂は新堂と同時に建てられた通称「契約の書の礼拝堂」The Chapel of the Tabletである。既に触れたように「契約の聖櫃」を納めてあったとされ、皇帝の愛妾 Menen Asfaw が自らの財力で建てさせた。ここに住み込んで仕える修道士以外、エチオピア正教会の司祭であっても足を踏み入れることは許されず、帝政時代の皇帝のみが堂内で礼拝した。この小礼拝堂と両マリア教会は巡礼の地であり、エチオピアの正教徒にとって最も位の高い聖地とされている。

アクスムには考古学ならびに民俗学の博物館があり、碑文をサベ語英語版、ゲエズ語、古代ギリシャ語で併記したエザナストーンは、古代エジプトのロゼッタ・ストーンを想起させる。

バゼン王墓(英語)とは巨石建造物で、この街に残る最古の人造物の一つと見なされる。現在では貯水槽に転用されたシバの女王の浴槽(英語)は、地元の伝承でシバの女王の住まいがアクスムにあったとされることに呼応する。古代の王宮にはタアカ・マリヤム宮殿(英語)(4世紀)、デュングル宮殿(英語)(6世紀)の遺跡が公開されている。ペンタレオン修道院(英語)リカノス修道院(英語)という宗教施設の遺構、あるいは天然の岩を削った石像でスフィンクスに似たゴベドラの雄ライオン(en:Lioness of Gobedra)の彫像(en:rock art[17]も遺され、頭部は破壊された。


世界遺産

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登録基準

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この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。

  • (1) 人類の創造的才能を表現する傑作。
  • (4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。

3D画像の記録事業

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国際連合の後援を受けるザマニ事業(Zamani Project)では、世界遺産の史跡を3次元画像で記録して将来の世代に遺す試みを全世界で進めている[18][19][20][21]。アクスムでも地上からレーザーを照射し立体画像を取り込む技術を用いており[22][23]、ステッレの敷地内では2006年に各所を記録した[24]。立体模型と図面、画像は幹事者グループが所属するケープタウン大学のサイト[25]で公開する。

ギャラリー

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姉妹都市

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脚注

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注釈

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  1. ^ ベントはロンドンに帰り着くと、さっそくエチオピアへの旅を上梓した[3]
  2. ^
    Theodore Bent's expedition to Abyssinia for the purpose of investigating the ruins of Aksum has not been so successful as might have been wished, owing to the hostilities which are being carried on between two of the chiefs; indeed, he and Mrs. Bent had a narrow escape from being involved in their hostilities. Still the expedition has not been altogether without interesting results.
    セオドア・ベントの調査行はアクスムの廃墟を調査する目的でアビシニアへ行き着きながら、首長2人のかわした敵対行為に阻まれ期待されたほどの成果を挙げず終了を見ており、実にベント夫妻は間一髪、交戦状態を脱出し得た。しかし遺憾ながら興味深い成果をもたらせず、遠征が完結したとは申し難い。
    Mountstuart E. Grant Duff[5]
  3. ^ 1893年のエチオピア行きに関する著書は他に3点あり、雑誌投稿として『Illustrated London News』に「From the Heart of Abyssinia」[7]と「In the North of Abyssinia」[8]、学術雑誌『The Geographical Journal』に「The Ancient Trade Route across Ethiopia」[9]を寄せた。

出典

[編集]
  1. ^ Mokhtar 1990, pp. 215–35.
  2. ^ Ethiopia: Regions, Major Cities & Towns - Population Statistics in Maps and Charts” (英語). www.citypopulation.de. 2016年8月22日閲覧。
  3. ^ The sacred city of the Ethiopians: being a record of travel and research in Abyssinia in 1893、ロンドン:ロングマン&グリーン社、1894年。
  4. ^ Mrs. Bent, J. Theodore 2012, p. 2012.
  5. ^ Duff & 1892-93, p. 21.
  6. ^ Bent, J. Theodore ; John George Garson ; David Heinrich von Müller. 1893. The sacred city of the Ethiopians: being a record of travel and research in Abyssinia in 1893. Ethiopica. doi:10.1163/9789004192782.HT-7. OCLC 1196143615. H.D. [i.e. D.H.] Müller, Professor「イエハとアクスムの碑文について」。J.G. Garson「アビシニア人の形態的特徴」
  7. ^ "From the Heart of Abyssinia". Illustrated London News, 8 April 1893.
  8. ^ "In the North of Abyssinia". Illustrated London News, 6 May 1893.
  9. ^ "The Ancient Trade Route across Ethiopia". The Geographical Journal, Vol. 2 (2) (Aug), pp.140-146.
  10. ^ a b Climate: Aksum - Climate graph, Temperature graph, Climate table”. Climate-Data.org. 2013年12月9日閲覧。
  11. ^ Herausgegeben von Uhlig 2005, p. 871.
  12. ^ Fage 2001, pp. 53–54.
  13. ^ Hodd 2002, p. 859.
  14. ^ a b Mission accomplished: Aksum Obelisk successfully reinstalled” [アクスムのオベリスク、再建に成功。] (英語). ユネスコ (1 August 2008). 23 January 2013閲覧。
  15. ^ Phillipson 2003, pp. 1–68.
  16. ^ Scarre, Chris. Seventy Wonders of the Ancient World. 1999.
  17. ^ Bard, Katherine A. (1996-04-29), So called "Lioness of Gobedra", Luisa Sernicola, doi:10.5555/al.ch.document.unoalpm19960429b, https://www.aluka.org/stable/10.5555/al.ch.document.unoalpm19960429b 2021年9月21日閲覧。 
  18. ^ Rüther, Heinz; Rajan, Rahim S. (2007). “Documenting African Sites: The Aluka Project”. Journal of the Society of Architectural Historians 66 (4): 437–443. doi:10.1525/jsah.2007.66.4.437. ISSN 0037-9808. JSTOR 10.1525/jsah.2007.66.4.437. 
  19. ^ Rüther, Heinz. AN AFRICAN HERITAGE DATABASE – THE VIRTUAL PRESERVATION OF AFRICA'S PAST (PDF). isprs.org (Report).
  20. ^ Giles, Chris. “Meet the scientists immortalizing African heritage in virtual reality”. CNN. 2019年10月17日閲覧。
  21. ^ Wild, Sarah. “Africa's great heritage sites are being mapped out with point precision lasers” (英語). Quartz Africa. 2019年10月17日閲覧。
  22. ^ Rüther, Heinz; Held, Christof; Bhurtha, Roshan; Schroeder, Ralph; Wessels, Stephen (2012-01-13). “From Point Cloud to Textured Model, the Zamani Laser Scanning Pipeline in Heritage Documentation” (英語). South African Journal of Geomatics 1 (1): 44–59–59. ISSN 2225-8531. http://www.sajg.org.za/index.php/sajg/article/view/20. 
  23. ^ Challenges in Heritage Documentation with Terrestrial Laser Scanning (pdf) (Report). 2022年9月23日閲覧
  24. ^ Site - Aksum Obelisk”. zamaniproject.org. 2019年10月18日閲覧。
  25. ^ Site - Aksum Obelisk” (英語). zamaniproject.org. ケープタウン大学. 2021年9月21日閲覧。

参考文献

[編集]

本文の典拠、主な執筆者の姓のアルファベット順。

  • Mrs. Bent, J. Theodore (2012). The Travel Chronicles of Mrs J. Theodore Bent. 2. Oxford: Archaeopress. p. 2012 
  • Duff (July 1893). “The Annual Address on the Progress of Geography, 1892-93” (英語). The Geographical Journal 2 (1): 21. 
  • Fage, J. D. (2001). A History of Africa. London: Routledge. pp. 53-54 ISBN 0-415-25248-2
  • Herausgegeben von Uhlig, Siegbert (2005). “D-Ha”. Encyclopaedia Aethiopica. Wiesbaden: Harrassowitz Verlag. p. 871 
  • Hodd, Mike (2002). Footprint East Africa Handbook. New York: Footprint Travel Guides. p. 859 ISBN 1-900949-65-2
  • Mokhtar, G. (1990). UNESCO General History of Africa. II (Abridged Edition ed.). Berkeley: University of California Press. pp. 215-35 ISBN 0-85255-092-8
  • Phillipson, David W. (2003). “Aksum: An archaeological introduction and guide [アクスム:考古学からの指摘と案内]” (英語). Azania: Archaeological Research in Africa 38 (1): 1-68. doi:10.1080/00672700309480357. 

関連項目

[編集]

関連資料

[編集]

出版年順、本文の典拠ではない資料。

日本語資料
  • 荻野 博「西方世界とインド洋貿易」『流通経済論集』1972年-1973年。NCID AN00251289
    • 「ヘレニズム時代・ローマ帝制初期を中心に-1-」、第6巻第4号、20-50頁。1972年2月。
    • 「ヘレニズム時代・ローマ帝制初期を中心に-2-」、第7巻第1号、64-86頁。1972年5月。
    • 「ヘレニズム時代・ローマ帝制初期を中心に-3-」、第7巻第3号、47-80頁。1972年12月。
    • 「ヘレニズム時代・ローマ帝制初期を中心に-4-」、第8巻第1号、29-64頁。1973年7月。
  • 荻野 博「ユスティニアヌスのエティオピア遣使について (創立10周年記念号)」『流通経済大学論集』第10巻第3号、57-66頁。1976年2月。
  • 「ナイルを支配したクシュ王国とアクスム王国;民本思想の源流をたずねて」『授業に役立つ世界史100話 』千葉県歴史教育者協議会世界史部会(編)、あゆみ出版、1988年。ISBN 4751912674, 4751912682NCID BN03040903
  • 蔀 勇造「アクスムとヒムヤル—前イスラム期の南アラビア情勢概観」「創立百周年記念第八十七回史学会大会報告記事」『史学雑誌』第98巻第12号、99-100頁(1999-2000頁)。1989年。doi:10.24471/shigaku.98.12_1982
  • 河合 雅雄『ゲラダヒヒの紋章』小学館〈河合雅雄著作集 11〉、1998年。ISBN 4096770116NCID BA33762596
    • 「第6章 アクスム国」「第7章 反世界の女王との対話」
  • 三沢 和子「アクスムとオペリスク」『祈りと太陽の民 : エチオピア民族のルーツ : 三沢和子写真集』遊人工房、2002年。ISBN 494656246XNCID BA58875730
  • 川又 一英「ティムカットの祝祭—最古の古都アクスムのタボット」『エチオピアのキリスト教思索の旅』山川出版社、2005年。ISBN 463464018XNCID BA73735624
  • 嶋田 義仁「アフロ・ユーラシア内陸乾燥地文明の4類型 : 乾燥地地域の人類文明史的考察(<特集>人類史の空間論的再構築-移動、出会い、コンフリクト)」『文化人類学』第74巻第4号、585-612頁、2010年。
  • アフロ「第2章 アフリカ・アジア・オセアニア(チュニジア(カルタゴ)—サン・ルイ教会(アクロポリウム);エジプト(アブメナ)—アブメナ修道院;エチオピア(アクスム)—新シオンの聖マリア教会 ほか)」『絶対に行きたい!世界の教会101』中経出版〈中経の文庫 あ-15-2〉2012年。ISBN 9784806142720NCID BB10412118
英語資料
アクスムのステッレが倒れた理由
  • Did earthquakes fell Aksum obelisks ? Francaviglia, V.; Istituto per le Tecnologie Applicate ai Beni Culturali ; C.N.R. ; Monterotondo Stazione, Roma, Italy; Augusti, G.; Dipartimento di Ingegneria Strutturale e Geotecnica, Università di Roma La Sapienza, Roma, Italy; Sepe, V.; Dipartimento di Ingegneria Strutturale e Geotecnica, Università di Roma La Sapienza, Roma, Italy. OCLC 697556415. PDF記録資料(英語)
  • Francaviglia, V. ; Augusti, G. ; Sepe, V. "Did earthquakes fell Aksum obelisks ?". Ann. Geophys. 電子版第38巻第5-6号、INGV(イタリア国立地球物理学火山学研究所)、1995年11月。doi:10.4401/ag-4100, OCLC 860656471.
ガディットについて
  • Green, Richard L. ; Ragsdale, Phyllis W. A salute to historic African kings and queens. Chicago : Empak Publishing Company〈Documenting our own history, v. 6.〉, 1996. OCLC 894775511 電子書籍、青少年向け(英語)
聖櫃伝説
  • Munro-Hay, Stuart. Quest for the Ark of the Covenant, The : the True History of the Tablets of Moses. London : I.B. Tauris, 2014. OCLC 1055562972 電子書籍(英語)

外部リンク

[編集]

座標: 北緯14度07分 東経38度44分 / 北緯14.117度 東経38.733度 / 14.117; 38.733