ジョージ・エドマンド・バトラー
ジョージ・エドマンド・バトラー George Edmund Butler | |
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生誕 |
1872年1月15日 イギリス, サウサンプトン |
死没 |
1936年8月9日 イギリス, トゥイッケナム |
ジョージ・エドマンド・バトラー(George Edmund Butler、1872年1月15日 - 1936年8月9日)はイギリス生まれの、ニュージーランドの画家である。第一次世界大戦末期に、ニュージーランド派遣軍(New Zealand Expeditionary Force:NZEF)の公式画家として従軍し、高級将校の肖像画や、戦場を描いた絵画を残した。
略歴
[編集]イギリスのサウサンプトンに生まれ、11歳の時、両親とともにニュージーランドのウェリントンに移住した[1]。学校を卒業した後、父親と働き、パートタイムで、ウェリントン・デザイン学校(Wellington School of Design)のジェームズ・ネアン(James Nairn:1859–1904)の元で学んだ[2]。1890年にウェリントン・デザイン学校に入学し、1892年にネアンが設立した、ウェリントン前衛美術クラブ(avant-garde Wellington Art Club)に入会し地元では海岸を描いた絵で有名になった。1897年にウェリントンの画商に伴われシドニーに渡り、国立美術館の作品を学んだ[2]。1898年から1900年の間、ヨーロッパに留学し、イギリスのランベス美術学校、パリのアカデミー・ジュリアンで学び、最後にアントウェルペン王立芸術学院で学んだ[1][2]。その間にイギリスで最初の結婚をした。、
1900年に帰国し、ウェリントンやクライストチャーチで展覧会を開いた。1901年からダニーデンに住み、ダーニデンで展覧会を開き、オタゴ美術協会展で入選し、町の有力者の肖像画を描いたが、プロの画家としての収入は得られず、美術教師もした。
1905年にイギリスに渡り、ブリストルに住み、クリフトン・カレッジで美術を教えた。肖像画や風景画が評判となって1912年に王立西イングランドアカデミー(Royal West of England Academy)の会員に選ばれた。ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツやスコットランド王立美術院、フランス芸術家協会の展覧会に出展した。
第一次世界大戦の帰趨が明らかになってきた後、ヨーロッパに派遣されていたニュージーランド派遣軍(New Zealand Expeditionary Force:NZEF)の戦史委員会がバトラーの画家としての評判とニュージーランドとの関わりから1918年にバトラーに申し出て公式の戦争画家に任命された。1918年9月に名誉将校に任命されて、ニュージーランド派遣軍のいる戦場に赴き戦場をスケッチした。戦後も、フランスやベルギーのかつての戦場もスケッチのために訪れた。これらを元に戦場を描いた絵画を制作した[1]。
戦争終結後の、1918年12月31日に派遣軍との契約は終了したが、ニュージーランドの政治家、ローズ(Robert Heaton Rhodes:1861-1956)や司令官だったラッセル将軍(Andrew Hamilton Russell)の依頼で、将校の肖像画や戦場の風景画の仕事は続けられた。
その後もニュージーランドへは戻らず、ロンドンのトゥイッケナムで没した。
作品
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(1918)
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(1920)
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ニュージーランド軍の軍装
参考文献
[編集]- ^ a b c “George Edmund Butler - War Art Digitisation”. Archives New Zealand. 3 May 2011閲覧。
- ^ a b c Pugsley, Chris. "Butler, George Edmund". Dictionary of New Zealand Biography. Ministry for Culture and Heritage. 2011年5月3日閲覧。