コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ジョン・マッソン・ガランド

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジョン・マッソン・ガランド
John Masson Gulland
ジョン・マッソン・ガランド(1933年)
生誕 (1898-10-14) 1898年10月14日
スコットランドエディンバラ
死没 (1947-10-26) 1947年10月26日(49歳没)
イギリス・ゴスウィック
出身校 エディンバラ大学
主な業績 DNA二重らせんの発見につながった研究
プロジェクト:人物伝
テンプレートを表示

ジョン・マッソン・ガランド英語:John Masson Gulland、1898年10月14日1947年10月26日)は、スコットランド化学者生化学者である。

主に核酸、モルヒネアポルフィンアルカロイドに関する研究で知られる。ノッティンガム大学での電気滴定に関する研究は、ジェームズ・ワトソンフランシス・クリックによるDNA二重らせんの発見にあたって重要であった[1]。この他、スコットランド海藻研究協会とレース研究評議会を設立したとして知られる。

生涯・経歴

[編集]

エディンバラのウェスト・エンドにある6アルバストリートで、母・ヘレンオームマッソンと父・ジョージラベルガランド博士の一人息子として生まれた。母方の祖父は陸上競技選手のデビッド・マッソンであり、母方のおじは科学者のデビッド・オーム・マッソンである。父方のおじは政治家ジョン・ウィリアム・ガランドである。父はのち、エディンバラ大学の医学教授になった[2]

ガラントの生家、6アルバストリート

1906年から1917年までエディンバラ・アカデミーに通い、第一次世界大戦で軍隊に徴兵され、王立工兵隊の少尉を務めた。「Divisional Signals Company」に配属され、敵を見ることは殆どもしくは全くなかった。戦後、1921年にエディンバラ大学で理学士号を取得した。その後、カーネギー研究奨学金を獲得し、セント・アンドリュース大学マンチェスター大学でさらに勉強を進めた。両方の大学でロバート・ロビンソン教授と共に働き、後にオックスフォード大学のダイソン・ペリンズ研究所で修士号を取得した。1924年にはオックスフォード大学で化学のデモンストレーターになり、1926年にベリオール・カレッジの講師に任命された[3]

1927年には、エディンバラ王立協会のフェローに選出された。推薦者は、サージェームズ・ウォーカージョージ・バーシャーアレクサンダー・ローダーラルフ・サムプソンであった[2]

第二次世界大戦中は、1939年から1943年までホームセキュリティ省でガスアドバイザーを務めた[4]。1947年に醸造研究所の研究ディレクターになったが、49歳の若さでゴスウィック鉄道事故で死亡した[5]

DNAの研究

[編集]

ガランドは、1953年にワトソンとクリックによるDNAの解読につながったいくつかの研究で中心的な役割を果たした。同僚であるデニス・ジョーダン、セドリック・スレルフォール、マイケル・クリースを含むノッティンガムチームは、1947年に3つの論文を作成した。1つ目はアルカリを使用せず高品質の非分解DNAサンプルを抽出できる方法を発見し[6]、2つ目はDNAの粘度を測定する方法を発見し[7]、3つ目はその中の水素結合構造を証明した[8]

ワトソンが水素結合の重要な役割を認識すると、DNAの解読は約1週間または10日以内に行われたようである[9]

ノッティンガムチームの研究は、ロザリンド・フランクリンレイモンド・ゴスリングによるDNAの解読に関する最初の論文で認められた[10]

これらの初期の引用の後は、ガランドと共同研究者の成果はあまり注目されないまま[11]、1953年のDNA解読の時期にはノッティンガムチームは解散していた。ガランドは、1947年の早死にの直前に、醸造研究所の研究ディレクターになっていた。一方、ジョーダンとクリースは両方とも英国外で働いていた。しかし、彼らの死後、2012年に出版された「The Annotated and Illustrated Double Helix」では、すべての貢献が認められた[12]

これらの出来事が異なった結果になった場合、ノッティンガムチームがDNA解読の発見を自分たちで行ったのではないかということについて、いくつかの推測的な議論がある[13][14]

家族

[編集]

ガラントは1924年に、サー・ジェームズ・A・ラッセルの娘であるルース・マデリーン・アイダ・ラッセルと結婚し、2人の娘が生まれた。同じく学生であった彼女とはエディンバラで化学を勉強していた頃に出会っていた[5]

出典

[編集]
  1. ^ The Path to the Double Helix: The Discovery of DNA, by Robert Olby Courier Corp.(1974年)95頁
  2. ^ a b Biographical Index of Former Fellows of the Royal Society of Edinburgh 1783–2002. The Royal Society of Edinburgh. 2006年6月. ISBN 0-902-198-84-X.
  3. ^ Haworth, R. D (1948年). "John Masson Gulland. 1898-1947". Obituary Notices of Fellows of the Royal Society. 6 (17): 67–82頁. doi:10.1098/rsbm.1948.0020. JSTOR 768912. S2CID 178433801.
  4. ^ "OBITUARY". Journal of the Institute of Brewing. 53 (6): 279. 1947年. doi:10.1002/j.2050-0416.1947.tb01338.x
  5. ^ a b 『Obituary Notice (John Masson Gulland, 1898–1947), Biochemical Journal』CAMBRIDGE UNIVERSITY PRESS、1948年。 
  6. ^ Gulland JM, Jordan D. O., and Threlfall C. J., (1947年) Deoxypentose nucleic acids. Part I. Preparation of the tetrasodium salt of the deoxypentose nucleic acid of calf thymus. J Chem Soc. 1947; 25: 1129–1131頁
  7. ^ JM Gulland; DO Jordan; HF Taylor; (1947年) Deoxypentose nucleic acids; Part II electrometric titration of the acidic and the basic groups of the deoxypentose nucleic acid of calf thymus. J Chem Soc. 1947; 25: 1131–1141頁
  8. ^ Creeth, J.M., Gulland, J.M. and Jordan, D.O. (1947年) Deoxypentose nucleic acids. Part III. Viscosity and streaming birefringence of solutions of the sodium salt of the deoxypentose nucleic acid of calf thymus. J. Chem. Soc. 1947、25、1141–1145頁
  9. ^ Watson James D., 1980年、The Double Helix Ed. G. Stent Norton New York、106頁
  10. ^ Franklin R.E. & Gosling R.F. Molecular Configuration in Sodium Thymonucleate, Nature、1953年4月25日、740-741頁
  11. ^ Harding Steve, The forgotten scientist who paved the way for the discovery of DNA’s structure, The Conversation 2017年11月13日
  12. ^ Watson, James D., 2012年、The Annotated and Illustrated Double Helix, Ed. Gann & Witkowski, Simon & Schuster, New York、196-197頁
  13. ^ Manchester, K.(1995年)Did a tragic accident delay the discovery of the double helical structure of DNA? Trends Biochem. Sci. 20: 126-128頁
  14. ^ Coates, J. Denis Oswald Jordan 1914–1982 Historical Records of Australian Science, vol.6, no.2(1985年)