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ジョン・ポーター

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ジョン・ポーター(John Porter、1838年3月2日[1] - 1922年2月21日[要出典])は、イングランドサラブレッド平地競走調教師イギリス三冠馬を3頭調教した。「ヴィクトリア時代で間違いなく最も成功した調教師[2]」(英国国立競馬博物館)、「19世紀の最後の四半世紀における最大の調教師[3]」(競馬史家のロジャー・ロングリグ)と評されている。

バークシャーにあるニューベリー競馬場の創設者でもある[2]

幼少期

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ポーターの父ジョンは仕立て屋であり、母は裁縫師であった[要出典]。両親が病の治療のためスタッフォードシャーのルージリー(Rugeley)のパーマー(William Palmer)という医師のもとに逗留しているあいだに、ポーターが生まれた[4]

このパーマー医師は後に「ルージリーの毒殺魔[5]」とか「毒殺公[5]」として知れ渡る人物で、19世紀のイギリスを代表する殺人鬼であった[4][5]。パーマー医師は身内に多額の保険金をかけて毒殺する手口で財産を増やし、その金を競走馬や厩舎経営に注ぎ込んでいた[5][注 1]。このためにポーターは幼少期から競馬関係者に囲まれて育った[4]

小学校時代の同級生だったトム・アシュモール(Tom Ashmall)は、のちに1860年の2000ギニーをザウィザード(The Wizard)という馬で制している[1][注 2]。なかでもポーターに影響を与えたのが、1849年にザフライングダッチマン英国ダービーを制したチャールズ・マーロウ騎手(Charles Marlow)だったという[1][4]

騎手として

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ポーターの両親は、息子に法曹界へ進むことを願っていた[4]。しかし、ポーターは14歳で学校を辞め、1852年にジョン・バーラム・デイ(John Barham Day、ジョン・デイ・シニアとも)の厩舎に3年契約の見習いとして丁稚入りした[4]。このときポーターは自分で年季奉公契約証文を作成して持参し、デイ調教師を驚かせたという[4][注 3]

当時、デイ調教師は悪徳高利貸[8]のヘンリー・パドウィック[注 4]をパトロンに据えてサセックス州のサウスダウンズ丘陵地(South Downs)にあるミチェルグローブ(Michel Grove[10])に厩舎を構えていた[4]。その頃のポーターは体重がわずか4ストーン10ポンド(約30キログラム)で[2]、普通であればおそらく騎乗機会に大いに恵まれただろうと考えられている[4]。しかし同厩には、のちにイギリスのチャンピオン騎手となるジョン・ウェルズ(John Wells、1833 - 1873[注 5])という見習い騎手がいて、ポーターには騎手としての実戦の機会があまり巡ってこなかった[4][12]

ポーターの騎手デビュー戦は1854年のグッドウッド競馬場で、初勝利は翌1855年のブライトン競馬場(Brighton Racecourse)であげた[4]。その後、騎手としては1858年のダービーにCarmelで出走したのが最後の騎乗になった[4]。これらを含めても、ポーターの騎手としての出走回数は通算20走に満たない[4]

馬丁として

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騎手としては全く機会が得られなかったが、この間もポーターは厩舎で競走馬の調教を学んでいた[12]

1855年春、パドウィックから厩舎を任されていたジョン・バーラム・デイ調教師が解任された[4][注 6]。代わって厩舎を任されたのがウィリアム・ゴーター調教師(William Goater)である[4][12]。ポーターはゴーター師によって厩舎の筆頭馬丁に抜擢された[2][4][12]。このときポーターは17歳だった[4][12]

まもなくゴーター調教師は厩舎をサセックス州のフィンドン(Findon[注 7])に移転した[4]

調教師として

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キャノンズヒース時代(1863年 - 1867年)

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1863年、ゴーター調教師の下で働くポーターに新たな働き先を紹介してきた人物がいた[4]。当時ゴーター厩舎に競走馬を預託していた有力者の一人、12代ウェストモーランド伯爵英語版である[4][12]

ビクトリア朝時代の有名な馬主でジョセフ・ホーリー卿(Sir Joseph Hawley)という人物がいた[13]。当時すでにテディントン(Teddington)、ビーズマン(Beadsman)でのダービー2勝など、英国クラシック競走6勝のキャリアを有する馬主である[14]。ホーリー卿は競馬を始めてすぐにハンプシャー州キャノンズヒース(Cannons Heath)に個人厩舎を開設していた[14]。ホーリー卿は1から10まで自ら指図するタイプだった[13][14]。そのホーリー卿の専属調教師として活躍していたジョージ・マニング調教師(George Manning[15])が1863年に没した[14]。ウェストモーランド伯爵は、その後任にと、ホーリー卿にジョン・ポーターを推挙したのだった[4][12]

ホーリー卿はジョン・ポーターが若すぎると懸念したものの、年100ポンドの給与を支払う条件でポーターをキャノンズヒース厩舎の専属調教師に据えた[4]。とはいえ、ホーリー卿は自ら厩舎のあらゆることを指図する人物だったので、専属調教師といっても実態は単なる馬丁扱いだったという[12][16]

このとき厩舎には12頭の競走馬がいた[4]。そして専属騎手には、かつてのジョン・デイ厩舎での見習い騎手仲間だったジョン・ウェルズ騎手がいた[4]。ポーターとウェルズ騎手のコンビは、1年目の1863年の秋のドンカスター競馬場でキャノンズヒース厩舎・ポーター調教師としての初勝利をあげた[12][注 8]

それからポーター調教師とウェルズ騎手によってキャノンズヒース厩舎はめざましい成績をおさめ、1867年までに英国のトップクラスの厩舎となった[4]。たとえば1867年晩秋のニューマーケット競馬場の開催(Second October Meeting)では、2歳チャンピオン決定戦のミドルパークステークスで1・2着を独占し[注 9]、さらに同じ開催でプレンダーガストステークス(Prendergast Stakes[注 10])、クリアウェルステークス(Clearwell Stakes[注 11])、王室賞(ロイヤルプレート[注 12])を勝っている[4]

キングスクレア時代・前半(1867年 - 1875年)

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この成功によってホーリー卿は競馬事業のさらなる拡大を決め、1867年の冬にバークシャー州ニューベリー近くのキングスクレア(Kingsclere)に新たな調教施設を建設した[4][12][13][16]。ただし当時のキングスクレア厩舎は小さく[注 13]、馬房は14、調教師の住まいとして用意された小屋もきわめて小さく質素なものだった[4][12][16][注 14]。馬房もじめじめしていて冬の間はひどく冷え、次シーズンの3歳クラシックの期待馬たち[注 15]は体調を崩してしまったという[17]

キングスクレアに移ってから最初のシーズンとなる1868年には、ポーター調教師はダービーに有力馬を3頭出走させた[4]。ミドルパークステークス優勝馬のグリーンスリーヴ(Green Sleeve)、同2着のロジクルシアン(Rosicrucian)、クリアウェルステークス優勝馬のブルーガウンである[4][17][注 16]。このうちブルーガウンが優勝し、ポーター調教師に最初のダービー優勝の栄冠をもたらした[3][4][12][注 17]。ブルーガウンは直後のアスコットゴールドカップも制した[16][17]

翌1869年にはペロゴメス(Pero Gomez)でセントレジャーステークスを制し、調教師として2年連続のクラシック競走優勝を果たした[4][12][注 18]。ブルーガウンのダービー優勝、ペロゴメスのセントレジャー優勝はいずれも、馬主はホーリー卿、鞍上はウェルズ騎手だった[4]

キングスクレア時代・後半(1875年 - 1905年)

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1875年にホーリー卿は没した[4][12]。このときホーリー卿の遺言により、ポーター調教師にはキングスクレアの施設一切を4,000ポンドで購入できるオプションが遺贈された[4][12][13][16]。ホーリー卿はキングスクレアに8,000ポンドを投じていたので、このオプションはその半値でキングスクレアを取得できるという寛大なものであった[13][16]

ポーターはこの選択権を行使したうえで、さらに20,000ポンドを投じてキングスクレアを拡張した[4][12]。この拡張工事によって、キングスクレアはイギリスを代表するサラブレッド調教地に変貌を遂げた[13]。馬房は広げられ、風通しがよくなり、滑りやすかった床は改善され、排水設備が整えられた[13][16]。また、当時まだ身分として軽視されていた馬丁(厩務員)と見習い騎手のための浴室とトイレを建設したことも特筆される[12]。そして近傍のウォーターシップダウン(Watership Down)という丘陵にサラブレッドが全力疾走するための起伏のある走路を造営した[13]。この走路は「ダービー・ギャロップ」と呼ばれ、現代にも受け継がれている[13]。当時ポーターは腸チフスを患っていながら、自ら製図板にむかい図面を描いたと自伝に綴っている[13][16]

ホーリー卿の馬がいなくなった最初の3年間、ポーター調教師は醸造業者のフレデリック・グラットン(Frederick Gretton)に依存することになった[3][4][12][18][注 19]。その主な活躍馬はアイソノミー[注 20]、ページェント(Pageant)[注 21]、プレストンパンズ(Prestonpans)[注 22]などである[4]。ただ、グラットンは馬券で儲けることへの執着が強く、馬券売り場ですぐに他人に食ってかかるなど行状が悪く、評判の低い人物だった[3][4][12][18]。1877年には、グラットンは馬券の倍率が高くなるようにわざとアイソノミーの出走をやめさせ、40,000ポンドを荒稼ぎした[18][注 23]。1880年の秋には自分の持っている有力馬をレース寸前で取り消す手口でブックメーカーや一般客を欺き、利益をあげた[4][12][注 24]。グラットンは「イギリスで世間に最も嫌われている馬主[20]」となり、こうした狡猾さや悪辣さを善しとしないポーターとグラットンのあいだも不和になった[12]。ポーターはこの年限りでグラットンと縁を切ることに決め、その所有馬をすべてキングスクレアから追い出した[4][12][注 25]

1880年に大富豪のグラットンと手を切った後も、ポーターのもとには次々と有力馬主が競走馬を預託するようになり、厩舎が困窮することはなかった[4]。最初に縁があったのがフレデリック・ジョンストーン卿(Sir Frederick Johnstone)とアリントン男爵(1st Baron Alington)による通称「The Old Firm[注 26]」という馬主連合である[21][22]。1881年に彼らは所有馬すべてをポーターの厩舎へ移籍させてきた[21]。同年にスタンフォード伯爵(7th Earl of Stamford)、さらに秋には初代ウェストミンスター公爵が馬を移してきた[4]

翌1882年、ウェストミンスター公爵のショットオーヴァー2000ギニーダービーを勝ち、スタンフォード伯爵のゲハイムニス(Geheimniss)がオークスを制した[4][12]。1883年は「The Old Firm」ことフレデリック・ジョンストーン卿・アリントン男爵のセントブレーズ(St. Blaise)がダービー優勝。1884年にはパラドックス(Paradox)がデューハーストプレートを勝ち、翌1885年に2000ギニーも制覇した[注 27]。この1885年のウェストミンスター公爵の持ち馬は、フェアウェル(Farewell)が1000ギニーに優勝し、オーモンドデューハーストプレートに勝っている。さらに1886年にはこのオーモンドが2000ギニー、ダービー、セントレジャーのいわゆる「イギリスクラシック三冠」を無敗で制した[4]。この時期はジョン・ポーター厩舎のいわゆる黄金時代とされている[4][12]

また、1886年からはアルバート・エドワード皇太子からも馬を預かるようになった[4]。これはフレデリック・ジョンストーン卿と皇太子がオックスフォード大学時代の学友だったことから実現したものである[4]。しかし、預かった皇太子の所有馬の中からはこれといった活躍馬は出なかった[4][注 28]。理由は明らかにされていないが、1892年に皇太子は所有馬を別の調教師のもとへ移してしまった[4]。移籍先はポーターとは親友だったリチャード・マーシュ調教師(Richard Marsh)である[4]。マーシュ調教師の推測では、皇太子の所有馬の管理を委ねられていた代理人は軽薄で口が滑らかなタイプで、厳粛でまじめくさったタイプのポーター調教師とそりが合わなかったのだろうとしている[4]。同じ1892年には、ポーターはヒルシュ男爵(Maurice de Hirsch)のラフレッシュで1000ギニー、オークス、セントレジャーを勝ち「牝馬三冠」を達成している[4][24]。しかしこの年の暮れに、ヒルシュ男爵も皇太子とともにポーターのもとから馬を引き上げ、マーシュ調教師のところへ移してしまった[24][注 29]

皇太子がポーターに馬を預けていた当時、ポーターは皇太子のためにパーディタという牝馬を仕入れ、900ポンドで皇太子に買わせた[25]。当時、周囲の人々は「こんな馬を皇太子に売りつけるとは、ポーターは皇太子を破滅させるつもりだろう」と評していた[25]。1892年に皇太子はこれを含めた全ての持ち馬をすべてマーシュ調教師のところへ移したのだが、その翌年、パーディタは二冠馬パーシモンを産んだ[4]。さらに4年後には三冠馬ダイヤモンドジュビリーを産んでいる。結局、パーディタが産んだ馬は、皇太子に7万2000ポンドの賞金と15万ポンドの種付け料収入をもたらし、皇太子は馬主チャンピオンになった[25]。しかしいずれもマーシュ厩舎に預けられて走った[4]

1894年には「The Old Firm」のスロッスル(Throstle)がセントレジャーを勝った[26]。1899年には、ポーター調教師としては3頭目の三冠馬となるフライングフォックス(馬主はウェストミンスター公爵)が出た[4]。この間、1898年に自前の厩舎を解散させたポートランド伯爵の預託も受けるようになり、1900年にラロシュ(La Roche)がオークス優勝、ウィリアムザサードがダービー2着となった[4]。翌1901年にはウィリアムザサードがアスコットゴールドカップを制した[4]

評価と引退

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調教師としてのポーターは、生真面目で、競走馬と、若手騎手や厩務員を大切にした[4]。そのため、競走馬をやたらと出走させることはなく、馬を強く追うことを避けた[4]。また、負担重量の軽い競走を選択することで見習い騎手の騎乗機会を増やした[4]。スタッフの待遇改善のため専用の風呂やトイレを整備したり、見習い騎手の賞金取り分を増やしたことでも知られている[4]。しかしそのために、厩舎の経営はいつも苦しかったという[13]。競馬の賞金はそのほとんどが厩舎の維持費に消え、かろうじて日常生活を営むことができる程度だった[13]。馬主から授けられる臨時収入があったり、繁殖牝馬が思わぬ高値で売れたときだけが貯蓄をすることができた[13]

ポーターは1905年のシーズンを最後に、調教師業から退いた[4][12]。43年間の通算勝利数はクラシック競走23勝を含む1063勝、総獲得賞金は720,021ポンドであった[4][12]。キングスクレアの施設の維持費があまりにも高額だったため、ポーターはウェストミンスター公爵やポートランド伯爵と共同で厩舎を株式会社化した[13]。そのうえでウィリアム・ウォー調教師(William Waugh)を招聘して厩舎の管理を委ねた[4][12][13][注 30]

クラシック競走勝利記録

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活躍馬 馬主 優勝レース
1868年 ブルーガウン ジョセフ・ホーリー卿 ダービー
1869年 ペロゴメス ジョセフ・ホーリー卿 セントレジャー
1882年 ショットオーヴァー ウェストミンスター公爵 2000ギニー、ダービー
ゲハイムニス スタンフォード伯爵 オークス
1883年 セントブレーズ フレデリック・ジョンストーン卿とアリントン男爵 ダービー
1885年 パラドックス W・B・クロート 2000ギニー
フェアウェル ウェストミンスター公爵 1000ギニー
1886年 オーモンド ウェストミンスター公爵 2000ギニー、ダービー、セントレジャー
1890年 Sainfoin James Percy Miller, 2nd Baronet ダービー
1891年 コモン フレデリック・ジョンストーン卿とアリントン男爵 2000ギニー、ダービー、セントレジャー
1892年 ラフレッシュ ヒルシュ男爵 1000ギニー、オークス、セントレジャー
1894年 スロッスル フレデリック・ジョンストーン卿とアリントン男爵 セントレジャー
1899年 フライングフォックス ウェストミンスター公爵 2000ギニー、ダービー、セントレジャー
1900年 ラロシュ ポートランド伯爵 オークス

調教師としてのキャリアの間、ウェストミンスター公爵ポートランド伯爵クルー伯爵、ポーツマス伯爵の馬に調教を行った。

調教師、キングスクレアのオーナーとして英国クラシックレースで通算23勝をあげた。うち7回は最も権威のあるレースであるダービーである。三冠馬となったのはオーモンド(1886年)、コモン(1891年)、フライングフォックス(1899年)である。

引退・栄誉

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1905年にレースから引退した。ニューベリー競馬場でのジョンポーターステークスは彼の名前の付いた古馬の1.5マイル(約2400メートル)の競走である。これは彼の死後6年後の1928年9月29日に初めて行われ、今日では4月に開催されている。

ジョン・ポーターとニューベリー競馬場

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ニューベリー競馬場の創設者でもあり、マネージングディレクターを務めた。

1903年、1904年にニューベリーに新しい競馬場を建てる提案を携えジョッキークラブへ何度も赴いた。彼は、ニューベリーが簡単にアクセス可能な場所にあることや人気のある施設の近くにあることは、新たな競馬場にとって理想的であると考えた。ジョッキークラブはこれらの提案を何度か却下し、すでに国内に十分な競馬場があると述べていた。

しかし、ポーターとエドワード7世偶然の[要出典]会合が全てを変えた。王はその提案に興味を示し、ジョッキークラブは最終的に許可を出した。ポーターはその後に進めることができた。

ニューベリー競馬場の会社は1904年4月26日に設立された。数日後、ポーターが議長を務め、ロンドンの事務所で第1回の理事会が開催された。彼らは土地を購入し、競馬場の建物と厩舎の建設を始めたが、それらを最初から作るのにわずか9か月しか与えられなかった。

ニューベリーでの最初のレースは1905年9月26日と27日に開催された。ポーターはZelisを調教し、Regulation Plateに勝利している。1905年のシーズン終わりに引退したため、ニューベリーでの勝利はこれが初めてで唯一であった。

Kingsclereのポーターのメモリーにある窓の一部。
Kingsclereの聖マリア教会にあるジョン・ポーターと妻の墓

脚注

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注釈

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  1. ^ ウィリアム・パーマー医師は、少なくとも11人を毒殺したと考えられている。逮捕のきっかけになったのは、大穴馬券をあてた人物の持ち金を狙って毒殺したことだった。投獄後も本人は無罪を主張、裁判で死刑が言い渡されて絞首刑となった[5]
  2. ^ 『John Porter of Kingsclere / an Autobiography』p1では「1861年」とあるが、The Wizardの2000ギニー優勝は1860年。
  3. ^ ジョン・バーラム・デイは1820年代から1830年代に騎手として牝馬クルシフィックスでの変則三冠をはじめ、英国クラシックレース16勝をあげる活躍をした。1830年代後半からは調教師も兼任するようになっており、クルシフィックスは自ら調教し騎乗している。当時の英国を代表する調教師であったが、その一方で数多くの「いんちき」を行うことでも悪名高かった。(当時は必ずしも「いんちき」は禁止行為ではなかった。)たとえば自厩舎の競走馬をわざと凡走させて別の馬の馬券を買って大儲けをしていた[6]クルシフィックスセントレジャーステークスに出るときも八百長を計画したが、陰謀を記した指示書を郵送する相手を間違ってしまい、事前に露呈した。第65回ダービーステークス(1844年)でも本命馬と対抗馬の有力2頭をわざと負けさせる八百長を仕組んで発覚したが、別の馬(ランニングレイン)のすり替え事件があったために追及を免れている[7]。その翌年もダービーで自身が管理する人気馬オールドイングランド(Old England)に毒を盛ってわざと負けさせ、自分は「オールドイングランドが負ける」に賭けて大儲けをした。このときは厳しく追及され、最終的には息子のウィリアム・デイの仕業ということにして幕引きをした。ウィリアムは競馬界追放処分になったが、のちに復帰、後述するロードオブジアイルとセントヒューバートの八百長に加担している。
  4. ^ 弁護士のヘンリー・パドウィックは、デイ調教師やブックメーカー連中とつるんで金持ちを嵌めていた。有力馬の馬主にパドウィックが高利で金を貸してブックメーカーから馬券を買わせ、調教師がその馬をわざと負けさせるという手口だった。中でもハーミットをめぐり、大富豪の4代ヘースティングス侯爵(4th Marquess of Hastings)を破産させ自殺に追い込んだことでよく知られている[8]。競馬史家ロジャー・ロングリグはパドウィックを「19世紀競馬界におけるもっとも悪質な人物」としている[9]
  5. ^ 英国騎手チャンピオン2回。ダービー3勝を含め英国クラシック通算8勝[11]
  6. ^ これもいんちきが原因だった。1855年春の時点で、パドウィック所有のセントヒューバート(St.Hubert)という3歳馬が2000ギニーの本命になっていて、デイ調教師に預けられていた。パドウィックは自らセントヒューバートの馬券をたっぷり購入していたのに、デイ調教師は自分の息子のウィリアム・デイ調教師のロードオブジアイル(Lord of the Isle)を勝たせるため、わざとセントヒューバートの調教を怠った。目論見通りロードオブジアイルが勝ってデイ父子は大儲けしたが、パドウィックにバレて馘になったのだった。以後、デイは息子の世話になって暮らした。
  7. ^ 従前のミチェルグローブから北東に約10km。
  8. ^ この日はちょうどドンカスター競馬場のセントレジャーステークスの開催日で、ポーター調教師・ウェルズ騎手はこの日の第1競走と第2競走を連勝している[4][12]
  9. ^ 1着Green Sleeve(牝馬)、アタマ差2着は種牡馬として成功したRosicrucian。
  10. ^ 1着Green Sleeve
  11. ^ 1着ブルーガウン
  12. ^ 1着The Palmer
  13. ^ 後述するように、キングスクレア厩舎はのちに拡張され、イギリスを代表する名調教地となった。20世紀にはエリザベス女王シェイク・モハメドが持ち馬を預けるようになり、ここを拠点とした有名馬としてミルリーフロックソングがいる。
  14. ^ すでにイギリスのトップクラスだったポーター調教師のために用意された住居が、このように粗末なものであることが、当時の「調教師」の地位の低さを示すものとされている[12]
  15. ^ ミドルパークステークスとプレンダーガストステークスの優勝馬グリーンスリーヴ(Green Sleeve)、ミドルパークステークス2着のロジクルシアン(Rosicrucian)、クリアウェルステークスやシャンペンステークスの勝ち馬ブルーガウン(Blue Gown)
  16. ^ 3頭とも冬の間に風邪を引いて体調を落としていたために、2000ギニーは凡走したり回避したりしている[17]
  17. ^ ポーター調教師は、ダービーの直前にキングスクレアで秘密裏に3頭の試走をしており、これを観たホーリー卿はブルーガウンに低評価を下していた。しかしウェルズ騎手は騎乗馬にブルーガウンを選び、クビ差の優勝に導いた[17]
  18. ^ ペロゴメスは次走のドンカスターステークスで同世代のダービー馬プリテンダー(Pretender)を破った[12]
  19. ^ フレデリック・グラットンは、イギリスの大手ビールメーカーバス・ブリュワリーの前身で、当時イギリス最大手のBass, Ratcliff & Grettonの社主の次男。1867年にオーナー社長の父が死ぬとフレデリックは会社の権利の8分の1を相続し、その金で競馬にのめり込んだ。
  20. ^ アスコットゴールドカップ連覇など10勝。詳細はアイソノミー参照。
  21. ^ 1878年ドンカスターカップ優勝のほか、1877年・1878年チェスターカップ(Chester Cup)連覇など。
  22. ^ リバプールオータムカップ(後述)、ホープフルステークス、クリテリオンステークス
  23. ^ アイソノミーは2歳の頃から頭角を表していた。ポーターはアイソノミーを1878年の3歳クラシックの有力馬と考えていたのに、しかしグラットンはアイソノミーをこれらの競走に出場させることを拒んだ。グラットンはアイソノミーの馬券で大儲けを狙っており、世間がアイソノミーのことを忘れて人気がなくなるのを待っていたのだった。1877年の秋まで待って、グラットンはアイソノミーを秋の大レースの一つケンブリッジシャーハンデ(Cambridgeshire Handicap)に出走させた。99ポンド(約45キログラム)の軽ハンデが与えられたアイソノミーには世間は見向きもしておらず、馬券は40対1の倍率がついていた(※「40対1」は、1ポンドの掛け金に対して40倍(40ポンド)の利益があることを表す。すなわち元本1ポンド+利益40ポンド=41ポンドの払い戻しとなり、日本で普及している倍率表示方式では「41.0倍」となる。)。アイソノミーはこれを楽勝した。1着賞金は約2200ポンドだったが、グラットンはこれとは別に馬券で40,000ポンド儲けた。この額は、当時のクラシック三冠をすべて勝った場合の賞金よりも多かった。その後アイソノミーは1880年夏まで走り数々の大レースを勝った。しかし後述のように1880年限りでポーターがグラットン所有馬を追い出したため、現役を退くことになった[4][18]
  24. ^ グラットンは中長距離を中心に使われてきたフェルナンデス(Fernandez)という有力馬をもっていた。(同馬はセントジェームズパレスステークスベンドアの2着になったことがあるような馬である。)一方のプレストパンズは2歳時に短距離路線を使われたきりだった。グラットンはこの2頭を12ハロンのリバプールオータムカップに登録し、フェルナンデスの鞍上に当時のトップジョッキーであるジョージ・フォアダム(George Fordham)を据えていた。ブックメーカーも一般客もみな、フェルナンデスを本命視していた。ところがグラットンはフェルナンデスの馬券がたっぷり売れるのを待って、レース直前にフェルナンデスの出走を取り消し、フォアダム騎手をプレストンパンズに騎乗させて出走させた。フォアダム騎手は長距離実績皆無のプレストンパンズを勝利に導いたが、世間は騙し討ちされたと憤り、優勝馬を取り囲んで罵声を浴びせた[4][12][19][20]
  25. ^ この結果としてアイソノミーも現役を退いて種牡馬となることになった。
  26. ^ 当時としては珍しいことだが、彼らは30年以上にわたり、共同で競走馬を所有して走らせていた。当時の世間の人たちは彼らを「The Old Firm(例の連中)」と呼んだ。ただし実際の出走にあたっては、公式には共有馬主という制度がないので、フレデリック・ジョンストーン卿の個人名義で出走させている。フレデリック・ジョンストーン卿は1860年代までジョセフ・ホーリー卿と組んでいて、その後はアリントン男爵と共にデイ一族の厩舎に馬を預けていた[21]
  27. ^ パラドックスは競り市でポーターが購買し、デビュー前にウェストミンスター公爵がこれを買い入れた。ところが人気を集めたデビュー戦で出遅れて3着に敗れると、ウェストミンスター公爵はパラドックスを売却してしまった。購入したのはアメリカ人実業家のW・B・クロート(William Broderick Cloete)である。その後パラドックスはデューハーストステークス、2000ギニーを勝ち、ウェストミンスター公爵の「見る目のなさ」の好例とされるようになった[23]
  28. ^ 皇太子は毎年10頭から12頭の競走馬をポーターに任せたが、1892年までのあいだに大レースの勝ち鞍はなく、通算でも18勝にとどまった[4]
  29. ^ もともとヒルシュ男爵は皇太子と親交が深く、ポーターにラフレシュを預けたのも皇太子のつてがあってのことだった。そのため、皇太子が馬を移籍させるときにヒルシュ男爵も帯同することになったのだった[24]
  30. ^ ウォー調教師はスコットランドの競馬一族の出自である。1903年にパトロンである馬主が死んで厩舎が解散していた。しかしながら、ウォー調教師の時代には、キングスクレアからはさほど活躍馬が出なかった。ポーターの跡を継いだ翌年の1906年にはウェストミンスター公爵のトラウトベック(Troutbeck)でセントレジャーなどを制したものの、次のクラシック優勝は1910年のウィンキポップ(Winkipop)の1000ギニー勝ちまでなく、それがキングスクレアでの最後のクラシック勝利となった。1919年にキングスクレアの株式会社は解散し、そのあと第一次世界大戦・第二次世界大戦のあいだキングスクレアはあまり顧みられなかった。1950年代に再興されたキングスクレアからは20世紀を代表する名馬の1頭ミルリーフが登場した[13]

出典

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  1. ^ a b c 『John Porter of Kingsclere / an Autobiography』p1
  2. ^ a b c d 英国国立競馬博物館(the United Kingdom's National Horseracing Museum)Porter, John (1838 - 1922) 2018年10月17日閲覧。
  3. ^ a b c d 『競馬の世界史』p152
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  6. ^ 『Biographical Encyclopaedia of British Flat Racing』p162-164「DAY,John Barham (1793-1860)」
  7. ^ 『ダービー その世界最高の競馬を語る』p27-34「ランニングレイン事件」
  8. ^ a b 『ダービー その世界最高の競馬を語る』p36-50「小柄な美女と男友達」
  9. ^ 『競馬の世界史』p131
  10. ^ 『イギリスの厩舎』p50-53「キャッスル・ステーブル(アランデル)」
  11. ^ 『Biographical Encyclopaedia of British Flat Racing』p647-648「WELLS,John (1833-1873)」
  12. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae 『英国競馬事典』p211-213「ジョン・ポーター」
  13. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『イギリスの厩舎』p11-15「キングスクレア イアン・ボールディング」
  14. ^ a b c d 『Biographical Encyclopaedia of British Flat Racing』p266-267「Hawley,Sir Joseph Henry,3rd Bt (1814-1875)」
  15. ^ 『Biographical Encyclopaedia of British Flat Racing』p368-369「Manning,George (d.1863)」
  16. ^ a b c d e f g h Park House Stables,Kingsclere History,Kingsclere 1865-1905,2018年10月17日閲覧。
  17. ^ a b c d e 『Biographical Encyclopaedia of British Flat Racing』p66-67「Blue Gown」
  18. ^ a b c d 『Biographical Encyclopaedia of British Flat Racing』p298「Isonomy」
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  20. ^ a b 『Baily's Magazine of Sports & Pastimes vol.XXXVI』p296-297
  21. ^ a b c 『Biographical Encyclopaedia of British Flat Racing』p321「JOHNSTONE,Sir Frederic John William ,8st BT (1841-1913)」
  22. ^ 『Biographical Encyclopaedia of British Flat Racing』p10-11「ALINGTON,Henry Gerard Sturt,1st Baron (1825-1904)」
  23. ^ 『Biographical Encyclopaedia of British Flat Racing』p441「Paradox」
  24. ^ a b c 『Biographical Encyclopaedia of British Flat Racing』p334「La Fleche」
  25. ^ a b c 『Biographical Encyclopaedia of British Flat Racing』p450「Perdita II」
  26. ^ 『Biographical Encyclopaedia of British Flat Racing』p615「Throstle」

書誌情報

[編集]
  • 『競馬の世界史』ロジャー・ロングリグ・著、原田俊治・訳、日本中央競馬会弘済会・刊、1976
  • 『ダービー その世界最高の競馬を語る』アラステア・バーネット、ティム・ネリガン著、千葉隆章・訳、(財)競馬国際交流協会刊、1998
  • 『イギリスの厩舎』アンドリュー・シム著、大久保登喜子・訳、財団法人競馬国際交流協会・監/刊、2002
  • 『サラブレッド』ピーター・ウィレット著、日本中央競馬会・刊、1978
  • 『英国競馬事典』,レイ・ヴァンプルー、ジョイス・ケイ共著,山本雅男・訳,財団法人競馬国際交流協会・刊,2008
  • 『競馬 サラブレッドの生産および英国競馬小史』デニス・クレイグ著、マイルズ・ネーピア改訂、佐藤正人訳、中央競馬ピーアールセンター刊、1986
  • 『サラブレッドの世界』サー・チャールズ・レスター著、佐藤正人訳、サラブレッド血統センター刊、1971
  • 『John Porter of Kingsclere / an Autobiography』John Porter and Edward Moorhouse, Grant Richards Ltd.,1919,Andesite Pressによる復刻版(2015),ISBN 978-1296536572
  • 『Biographical Encyclopaedia of British Flat Racing』Roger Mortimer and Richard Onslow and Peter Willet,Macdonald and jane's,1978,ISBN 0354085360
  • 『The Derby;A celebration of the world's most famous horse race』,Michael Wynn Jones,1979,London,ISBN 0856648841
  • 『The Demon: The Life of George Fordham』,Michael Tanner,AuthorHouseUK,2017,ISBN 978-1524680114
  • 『Baily's Magazine of Sports & Pastimes vol.XXXVI』,A.H.Baily&Co.,Cornhill,London,1881


外部リンク

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