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ジョン・フィッシャー (ソールズベリー主教)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ウィリアム・ダニエル英語版によるジョン・フィッシャーの肖像(1793年、エッチング)ロンドン・ナショナル・ポートレート・ギャラリー所蔵

ジョン・フィッシャー(John Fisher、1748年 - 1825年5月8日)は、19世紀のイングランド国教会主教である。エクセター主教英語版ソールズベリー主教を歴任した。

生涯

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フィッシャーが描いたオスミントン英語版の絵

ジョン・フィッシャーは、ワイト島カルボーン英語版の教区牧師ジョン・フィッシャーの長男として、ロンドンのハンプトン英語版で生まれた。ピーターバラセント・ポールズ・スクールケンブリッジ大学ピーターハウス英語版で教育を受けた。1770年に学士号、1773年に修士号を取得し、セント・ジョンズ・カレッジ英語版のフェローとなった[1]

1780年にケント公エドワード王子の教育係となり、1781年に国王ジョージ3世の国王付き副牧師(Deputy Clerk of the Closet)に任命され、1785年までその職に就いた[2]。1786年にウィンザー城聖ジョージ礼拝堂律修司祭となり、1805年にプリンス・オブ・ウェールズ(後のジョージ4世)の一人娘シャーロット王女の教育係に任命された[3]。また、ガーター勲章の騎士団長(Chancellor)も務めた。

甥の司祭ジョン・フィッシャー英語版。(ジョン・コンスタブルによる1816年の肖像画。フィッツウィリアム美術館所蔵。

1803年にエクセター主教英語版、1807年にソールズベリー主教に任命され、1825年に亡くなるまでその地位にあった。ソールズベリー主教として、フィッシャーはガーター勲章の職権上の騎士団長も務めた。

また、画家ジョン・コンスタブルとの親交も深く、コンスタブルの結婚式の司式を務めたり、『主教の庭から見たソールズベリー大聖堂』の制作を依頼したりしている。その後、フィッシャーはコンスタブルの最大の後援者となり、親しい友人となった。フィッシャー自身、王室とのつながりから「王室のフィッシャー」(King's Fisher)と呼ばれることもあり、彼の後援はコンスタブルにとって貴重な財産となった。

その後、フィッシャーはコンスタブルを甥で同名の司祭ジョン・フィッシャー英語版に紹介した。司祭のジョン・フィッシャーは、フィッシャーの弟でロンドンのチャーターハウス・スクールのマスターであるフィリップの息子だった。司祭のジョン・フィッシャー(後のバークシャー大司教英語版)もまたコンスタブルの親友となり、もう一人の重要な支援者となった。コンスタブルは新婚旅行を司祭のジョン・フィッシャーの家(ドーセット州オスミントン英語版)で過ごした。フィッシャー家とコンスタブルの関係の深さは、伝記作家のチャールズ・ロバート・レスリーがコンスタブルに関する伝記『ジョン・コンスタブルの生涯の回顧録』(1843年)の記述の多くをフィッシャー家とコンスタブルとの間の書簡に基づいているほどである[4]

フィッシャーの死後、コンスタブルはソールズベリー大聖堂の近くにあるフィッシャーの家に虹がかかっている絵を描いて彼を追悼した。フィッシャーの遺体は、ウィンザー城の聖ジョージ礼拝堂に埋葬されている。ソールズベリー大聖堂には、フィッシャーの葬儀記念碑がある。

家族

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ジョン・フィッシャーは、サフォーク州ヨックスフォードのシブトン修道院英語版に住むジョン・フレストンの娘のドロテア(Dorothea)(遺産相続の際に名前をスクリブナー(Scrivener)に変えた)と結婚した。ドロテアとの結婚により、サフォークにある領地から年間1700ポンドという多額の収入がもたらされた。

夫妻の間には3人の子供がいた。未婚のまま亡くなったエドワード、ジョン・フレデリック・パイクと結婚したドロテア、ウェールズのペンブロークシャー州ブラウンズレイドのジョン・ミアハウスと結婚したエリザベスである[5][6]

ジョン・コンスタブルの1825年頃の絵画『主教の庭から見たソールズベリー大聖堂』。左下に絵の注文主であるフィッシャーとその妻が描かれている。

脚注

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  1. ^ "Fisher, John (FSR765J)". A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
  2. ^ Britton, John. Wells, Exeter, and Worcester. p. 82 
  3. ^ The History and Antiquities of The Cathedral Church of Salisbury, John Britton, Printed for Longman, Hurst, Rees, Orme, and Brown, London, 1814
  4. ^ John Constable, R.A., 1776–1837, Langham's History, langham.org.uk
  5. ^ "Mirehouse, John [Cambell] (MRHS806JC)". A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
  6. ^ John Constable and the Fishers, Routledge & Kegan Paul Ltd., London, 1952

参考文献

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外部リンク

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イングランド国教会の称号
先代
レジナルド・コートネイ英語版
エクセター主教英語版
1803–1807
次代
ジョージ・ペラム英語版
先代
ジョン・ダグラス英語版
ソールズベリー主教
1807年5月30日 - 1825年5月21日
次代
トーマス・バージェス英語版