ジョン・ウェスト (初代デ・ラ・ウォー伯爵)
初代デ・ラ・ウォー伯爵ジョン・ウェスト | |
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ニュージャージー植民地総督 | |
任期 1737年6月20日 – 1737年9月(就任せず) | |
君主 | ジョージ2世 |
ニューヨーク植民地総督 | |
任期 1737年6月20日 – 1737年9月(就任せず) | |
君主 | ジョージ2世 |
副知事 | ジョージ・クラーク |
グレイヴセンドおよびティルベリー総督 | |
任期 1747年 – 1752年 | |
君主 | ジョージ2世 |
前任者 | アダム・ウィリアムソン |
後任者 | カドガン男爵 |
ガーンジー総督 | |
任期 1752年 – 1766年3月16日 | |
君主 | ジョージ2世 ジョージ3世 |
前任者 | サー・ジョン・リゴニア |
後任者 | サー・リチャード・リトルトン |
個人情報 | |
生誕 | ジョン・ウェスト閣下 1693年4月4日 イングランド王国 |
死没 | 1766年3月16日 |
配偶者 | シャーロット・マッカーシー アン・ウォーカー |
子供 | ダイアナ ジョン ジョージ・オーガスタス ヘンリエッタ |
初代デ・ラ・ウォー伯爵ジョン・ウェスト中将(英語: John West, 1st Earl De La Warr KB PC FRS、1693年4月4日 – 1766年3月16日)は、グレートブリテン王国の貴族、軍人、政治家。1723年までジョン・ウェスト閣下の儀礼称号を、1723年から1761年までデ・ラ・ウォー男爵の称号を使用した。
生涯
[編集]第6代デ・ラ・ウォー男爵ジョン・ウェストとマーガレット・フリーマン(ロンドンの商人ジョン・フリーマンの娘および相続人)の息子として生まれた[1]。イートン・カレッジで教育を受けた後、ヨーロッパを旅し、1712年に帰国した[2]。
1712年、枢密院特命書記官長に任命された[1]。1715年イギリス総選挙でグラムパウンド選挙区から出馬して当選、以降1722年まで庶民院議員を務めた。1715年に第1近衛騎馬隊の少佐になり、1717年に中佐に昇進した[1]。1723年、父の死去に伴いデ・ラ・ウォー男爵を継承、貴族院に移籍した。1725年5月27日、バス勲章を授与される[3]とともにジョージ1世の寝室侍従に任命された[4]。1728年、王立協会フェローに選出された[1]。
1731年6月12日、枢密顧問官に任命される[5]とともに王室会計長官に任命され、1737年まで務めた[1]。1732年、大法官キング男爵の不在中に一時的に貴族院議長を務め、1736年のポーティアス暴動の後はエディンバラ市への厳罰を支持した。同1736年、神聖ローマ帝国に派遣されオーガスタ・オブ・サクス=ゴータ(王太子フレデリック・ルイスの結婚相手)をイギリスに護送する任務を与えられた。ハーヴィー男爵はこの出来事について、「王太子の嫉妬をやわらげられるこれ以上の選択はない」「それほど洗練されていない使者はドイツにおけるいかなるゴート族やヴァンダル族の宮廷でも見つからない」と記述した[6]。デ・ラ・ウォー男爵とオーガスタは1736年4月にグリニッジで上陸した[1]。
1736年から1766年まで、レヴァント会社総裁を務めた[2][3]。1737年、ニュージャージー植民地総督とニューヨーク植民地総督に任命されたが、米州にわたることはなく[7]、貴族院で活動しながら軍務を続けた。オーストリア継承戦争中の1743年にはデッティンゲンの戦いに参戦した[1]。1737年8月30日、第1近衛騎馬隊隊長になり[8]、以降死去まで務めた。1743年に准将に、1745年に少将に、1747年に中将に昇進、1765年にGeneral of the Horseに任命された[1]。1752年にガーンジー総督に任命され、1766年に死去するまで務めた。1754年、大法官ハードウィック伯爵の不在中に一時的に貴族院議長を務めた[2]。1761年、国王ジョージ3世によりデ・ラ・ウォー伯爵およびカンテループ子爵に叙された[9]。
1766年3月16日に72歳で死去、3月22日に聖マーガレット教会で埋葬された[2]。長男ジョンが爵位を継承した[2]。
家族
[編集]1721年5月25日、シャーロット・マッカーシー(1735年2月没、第4代クランカーティ伯爵ドノー・マッカーシーとエリザベス・スペンサーの娘)と結婚、2男2女をもうけた[1]。
- ジョン(1729年 – 1777年)
- ダイアナ(1731年 – 1766年) - ジョン・クレイヴァーリングと結婚[10]
- ジョージ・オーガスタス(1776年没)
- ヘンリエッタ(1817年没) - ジェームズ・ジョンストンと結婚[11]
1744年6月15日[2]、アン・ウォーカー(1748年6月没、ネヘミア・ウォーカー(Nehemiah Walker)の娘)と再婚したが、2人の間に子供はいなかった。アンの死後は再婚しなかった。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i Norgate, Gerald Le Grys (1899). Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 60. London: Smith, Elder & Co. pp. 332–333. . In
- ^ a b c d e f Clayton, M. E. "West, John, first Earl De La Warr". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/29087。 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
- ^ a b Cruickshanks, Eveline (1970). "WEST, Hon. John (1693-1766)". In Sedgwick, Romney (ed.). The House of Commons 1715-1754 (英語). The History of Parliament Trust. 2019年5月14日閲覧。
- ^ "No. 6378". The London Gazette (英語). 1 June 1725. p. 1.
- ^ "No. 6995". The London Gazette (英語). 12 June 1731. p. 1.
- ^ ハーヴィー男爵はデ・ラ・ウォー男爵を「長身でやせた、きまりの悪い人物」と酷評しており、記述の意味は「蛮族の宮廷でもみられないほどの容姿」という皮肉だった。
- ^ New Jersey Colonial Documents, Archives of the State of New Jersey, First Series, Vol. V; Daily Advertiser Publishing House, Newark, New Jersey, 1882. pp. 490-491.
- ^ The Army List, 1754. WO 65/1
- ^ "No. 10088". The London Gazette (英語). 17 March 1761. p. 3.
- ^ "Clavering, Sir John [James-John] (bap. 1722, d. 1777), army officer". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/5553。 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
- ^ "James Johnston" (英語). Westminster Abbey. 2019年5月14日閲覧。
グレートブリテン議会 | ||
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先代 アンドリュー・クイック トマス・クック |
庶民院議員(グラムパウンド選挙区選出) 1715年 – 1722年 同職:チャールズ・クック 1715年 – 1721年 リチャード・ウェスト 1721年 – 1722年 |
次代 ハーティントン侯爵 ハンフリー・モーリス |
公職 | ||
先代 ビングリー男爵 |
王室会計長官 1731年 – 1737年 |
次代 フィッツウォルター伯爵 |
軍職 | ||
先代 モンタギュー公爵 |
第1近衛騎馬隊隊長 1737年 – 1766年 |
次代 デ・ラ・ウォー伯爵 |
先代 アダム・ウィリアムソン |
グレイヴセンドおよびティルベリー総督 1747年 – 1752年 |
次代 カドガン男爵 |
先代 サー・ジョン・リゴニア |
ガーンジー総督 1752年 – 1766年 |
次代 サー・リチャード・リトルトン |
グレートブリテンの爵位 | ||
爵位創設 | デ・ラ・ウォー伯爵 1761年 – 1766年 |
次代 ジョン・ウェスト |
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デ・ラ・ウォー男爵 1723年 – 1766年 |
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