ジャライルタイ・コルチ
ジャライルタイ・コルチ(生没年不詳)は、モンゴル帝国に仕えた将軍の一人で、ジャライル部の出身。モンゴルの高麗侵攻において第6次遠征軍を率い、高麗国を最終的に投降に追い込んだ人物として知られる。
漢文史料では様々な表記がなされており、『元朝秘史』では札剌亦児台豁児赤(zhálàyìértái huōérchì)、『元史』では札剌台(zhálàtái)もしくは札剌䚟(zhálàdǎi)、『高麗史』では車羅大(chēluódà)と記される。
概要
[編集]『元史』巻133列伝20タチュ伝によるとジャライルタイ(札剌台)はチンギス・カン(太祖)の治世からモンゴル帝国に仕えた歴戦の勇将で、1254年(甲寅/高宗41年/憲宗4年)より高麗方面の経略に関わるようになったという[1]。第4代皇帝モンケ・カアンの治世の3年目(1253年/癸丑)に「征東元帥」に任じられた[2]ジャライルタイは翌1254年夏に高麗国に入り[3]、同年7月には「ジャライルタイ(車羅大)が5千の兵を率いて鴨緑江を渡った」ことが高麗朝廷にも報告された[4][5]。これを受けて、高麗朝廷は8月に早くも大将軍李長をジャライルタイらの下に派遣したが、ジャライルタイは君臣・百姓は(臨時の都である江華島から)大陸に戻り剃髪せよ。もし要求に従わなければモンゴル兵が撤兵することはないだろう」と語ったという[6]。『高麗史』では同9月には忠州山城[7]、10月には尚州山城の攻略[8]に失敗したと記されているが、一方で『元史』には同年中に光州・安城・忠州・玄鳳・珍原・甲向・玉果の諸城をジャライルタイと洪福源が攻略したと記されている[9]。また、同年10月〜12月には崔璘がジャライルタイの下を訪れて和平交渉を行っているが、やはりジャライルタイは崔沆が王を奉じて江華島を出れば撤兵する」と回答している[10]。
1255年(乙卯/高宗42年/憲宗5年)正月にはモンゴル兵の一部が江華島に至り、高麗朝廷は再び崔璘を使者としてジャライルタイの下に派遣した[11]。また、2月にはモンゴルの側からも阿豆・仍夫ら4人が使者として派遣され、高麗朝廷は梯浦館にてこれを歓待した[12]。同年9月には崔璘がモンゴル側の使者6名とともに高麗朝廷に戻り、西京(現平壌)に永寧公王綧が大軍を率いて駐屯していることを報告した[13]。
1256年(丙辰/高宗43年/憲宗6年)3月には高麗朝廷から大将軍の慎執平がジャライルタイの下に派遣されたが[14]、王太子自らがモンゴル皇帝の下を訪れ投降を表明するまで撤兵はありえないという問答が繰り返されただけだった[15]。続けて4月にも慎執平が派遣されたが[16]、実効性のない高麗の講和交渉にジャライルタイは遂に怒り[17]、5月よりモンゴル軍の高麗侵攻は再び激化した[18]。8月にはジャライルタイ・永寧公王綧・洪福源らは江華島近くまで来たものの[19]、9月には冬が近づいたため一時兵を収めた[20]。
1257年(丁巳/高宗44年/憲宗7年)6月、モンゴル兵が南京(現ソウル特別市)にまで至ったため、モンゴル兵を引かせるために李凝がジャライルタイの下に派遣された[21]。7月には逆にジャライルタイから18人の使者が高麗朝廷に派遣され[22]、また高麗朝廷からは永安公王僖が派遣されたが、結局従来と同じ問答がなされただけであった[23]。一方、もはやモンゴル軍への抗戦は不可能と見た高官の一部はジャライルタイの要求に従って王太子を派遣するよう王に要請したが、王はなおモンゴルへの投降を決意できないでいた[24]。ジャライルタイは同7月に神威島を陥落させて孟州守の胡寿を殺害し[25]、9月には冬が近づいてきたため兵を一時収めた[26]。
1258年(丁巳/高宗45年/憲宗8年)3月には戊午政変によって崔氏政権が倒れて高麗側の対モンゴル戦略は転換期を迎え、今まで一行に進まなかった和平交渉(高麗のモンゴルへの服属)が実現に向かい始めた。一方で長らくジャライルタイの同僚として活動していた洪福源が同時期に亡くなり、子の洪茶丘が後を継いでいる[27][28]。同年四月にはジャライルタイの派遣した使者が高麗朝廷の江華島からの移動状況を視察に訪れ[29]、5月には遂に王は海を渡って大陸側に戻り、ジャライルタイの派遣した波養ら9人の使者を引見した[30]。同年6月、高麗朝廷との和平交渉を補佐するためにモンゴル本国から余愁達・甫波大らがそれぞれ1千の兵を率いて派遣されているが[31]、この内「余愁達」は後述するように『元朝秘史』にも言及される「イェスデル」に相当する。同6月、ジャライルタイから高麗朝廷に派遣された波乎只ら6人の使者は、「高麗国が実に投降するのならば、鶏・犬といえども一つとして殺しはしない。もしそうでなければ再び攻撃をしかける」というモンケ・カアンのジャルリグ(聖旨)に基づいて、高麗国王と王太子自らが西京にまで至れば撤兵しようというジャライルタイの言葉を伝えた。これに対し、高麗王は「予は既に年老いて遠行はできない」と述べて王太子のみを派遣することを申し出、遂に永安公王僖がジャライルタイの屯所に派遣された[32]。また、同月にはイェスデルが「皇帝(モンケ・カアン)は高麗の事を我とジャライルタイに委ねている。モンゴル兵の居留は高麗朝廷の態度に懸かっている」と申し伝えたと記録されている[33]。しかし、同年中は永安公王僖のジャライルタイ訪問を経ても高麗のモンゴルへの投降はまとまらなかった[34][35]。
1259年(己未/高宗46年/憲宗9年)3月、ようやく「高麗朝廷は江華島を離れて旧都に戻り、太子がモンケ・カアンに朝見する」ことを条件に和平が成り、ジャライルタイらも喜んだという[36]。しかし、その後同年5月にジャライルタイは何らかの理由で急死した[37]。
『元史』巻133列伝20塔出伝にはジャライルタイの息子のタチュが父同様に遼東方面で活動し、ナヤン・カダアンの乱鎮圧に活躍したことが記録されている。また、同伝は「己未(1259年)正月、高麗の計画は行き詰まり、遂に[モンゴルに]内附した。[高麗の内附について]ジャライルタイの功はまことに大きいものがある」と評されている[38]。
『元朝秘史』の記述
[編集]『元朝秘史』巻12第274節にはオゴデイ・カアンによるチョルマグンの西アジア派遣、バトゥの東欧派遣に続いて、高麗へのモンゴル軍派遣について以下のように記されている。
さきに、女真人・高麗人[の国に]出征したるジャライルタイ・コルチの後詰めにはイェスデル・コルチを出征させて、「鎮戍の軍(タンマチ)として、留まらしめよ」とのご沙汰があった。 — オゴデイ・カアン、『元朝秘史』第281節[39]
当初、『元朝秘史』の記す「ジャライルタイ・コルチ(札剌亦児台豁児赤)」は単純にオゴデイ時期に高麗方面に出兵した「撒礼塔/撒里台」と同一人物であるとみなされ、柯劭忞の『新元史』や屠寄の『蒙兀児史記』などでも札剌亦児台豁児赤=撒礼塔/撒里台であることを前提に立伝されている。しかし、(1)「撒里台」と「札剌亦児台」では音価が一致せず、むしろモンケ時期の「車羅大」の方が相似すること、(2)1258年/丁巳年に「車羅大」への援軍として「余愁達」が派遣されていることは、『元朝秘史』の「ジャライルタイの後詰めにイェスデルが派遣された」という記述によく合致すること、(3)同274節には「チョルマグンがバグダードの民を帰順させた」とあるが、バグダードを陥落させたのはモンケ時期のフレグであって時系列の混乱が見られること、などを踏まえ現在では「札剌亦児台=モンケ時期の車羅大」と見なし、『元朝秘史』巻12第274節にはオゴデイ時期の外征とモンケ時期の外征の記述が入り乱れていると解釈するのが一般的である[40]。
脚注
[編集]- ^ 『元史』巻133列伝20塔出伝,「塔出、蒙古札剌児氏。父札剌台、歴事太祖・憲宗。歳甲寅、奉旨伐高麗、命桑吉・忽剌出諸王並聴節制。其年、破高麗連城、挙国遁入海島。己未正月、高麗計窮、遂内附、札剌台之功居多」
- ^ 『元史』巻3憲宗本紀,「三年癸丑……罷也古征高麗兵、以札剌台為征東元帥」
- ^ 『元史』巻3憲宗本紀,「四年甲寅……夏、幸月児滅怯土之地。遣札剌亦児台豁児赤征高麗」
- ^ 『高麗史』巻24高宗世家3「[四十一年秋七月丁巳]安慶府典籤閔仁解還自蒙古、言帝使車羅大主東国」
- ^ 『高麗史』巻24高宗世家3「[四十一年秋七月]壬戌、西北面兵馬使報、車羅大等帥兵五千渡鴨緑」
- ^ 『高麗史』巻24高宗世家3「[四十一年秋八月]壬辰、命大将軍李長、詣蒙兵屯所普賢院、贈車羅大・余速禿・甫波大等元帥、及永寧公綧・洪福源、金銀酒器・皮幣、有差。長還奏、車羅大云『君臣百姓出陸、則尽剃其髪、否則以国王還。如一不従、兵無回期』」
- ^ 『高麗史』巻24高宗世家3「[四十一年九月]己酉、遣御史朴仁基、至車羅大屯所、贈酒果及幣。癸丑、車羅大攻忠州山城、風雨暴作。城中人抽精鋭、奮撃之、敵解囲、遂南下」
- ^ 『高麗史』巻24高宗世家3「[四十一年冬十月]戊子、車羅大攻尚州山城、黄嶺寺僧洪之、射殺第四官人。士卒死者過半、遂解囲而退。遣参知政事崔璘如車羅大屯所、請罷兵」
- ^ 『元史』巻154列伝41洪福源伝,「洪福源、其先中国人、唐遣才子八人往教高麗、洪其一也。……甲寅、与札剌台合兵攻光州・安城・忠州・玄鳳・珍原・甲向・玉果等城、又抜之」。なお、『元史』憲宗本紀はこれらの諸城の攻略を翌年乙卯のこととしている(『元史』巻3憲宗本紀,「五年乙卯……是歳、改命札剌台与洪福源同征高麗。後此又連三歳、攻抜其光州・安城・忠州・玄鳳・珍原・甲向・玉果等城」)が、洪福源伝の記述に従って甲寅の出来事とするのが正しい、と指摘されている。
- ^ 『高麗史』巻24高宗世家3「[四十一年十二月]甲午、崔璘還奏曰、臣至陜州丹渓、見車羅大言『崔沆奉王出陸、則兵可罷』」
- ^ 『高麗史』巻24高宗世家3「[四十二年春正月]辛丑、蒙兵二十餘騎、到甲串江外。癸卯、被虜大丘民、逃還言『蒙古帝勅車羅大、促還師、蒙兵屯北界者、已渡鴨綠江』。乙卯、蒙兵百餘騎到昇天城外。命大将軍崔瑛慰諭。瑛自城上、縋下酒饌犒之、蒙兵乃去。遣平章事崔璘如蒙古、献方物、仍乞罷兵、表曰『皇威遠格、聖訓驟加、無地措躬、籲天以実。恭惟皇帝陛下、廓乾坤之度、察貝錦之讒、疾速班師、哀矜有衆。則咸承仁化、得聊生而出居、嘉与後昆、至永世而供職』。車羅大屯于旧京保定門外。庚申、蒙兵五十餘騎到昇天城外」
- ^ 『高麗史』巻24高宗世家3「[四十二年]二月辛未、車羅大遣阿豆・仍夫等四人来。甲戌、王宴于梯浦館」
- ^ 『高麗史』巻24高宗世家3「[四十二年九月]丁未、崔璘与蒙古使六人来、留客使于昇天館、先入奏云『車羅大・永寧公領大兵、到西京、候騎已至金郊』」
- ^ 『高麗史』巻24高宗世家3「[四十三年]三月己酉、幸賢聖寺。遣大将軍慎執平等于車羅大屯所」
- ^ 『高麗史』巻24高宗世家3「[四十三年夏四月]壬申、慎執平自蒙兵屯所還言、車羅大・永寧公云『若国王出迎使者、王太子親朝帝所、兵可罷還、否則以何辞而退乎』。時、車羅大・永寧公屯潭陽、洪福源屯海陽」
- ^ 『高麗史』巻24高宗世家3「[四十三年夏四月]乙亥、復遣慎執平于車羅大屯所、寄書云『大兵回来、惟命是従』」
- ^ 『高麗史』巻24高宗世家3「[四十三年五月]壬寅、慎執平自羅州還言、車羅大怒曰『若欲和親、爾国何多殺我兵。死者已矣、擒者可還』。仍令三十人伴行、到昇天館」
- ^ 『高麗史』巻24高宗世家3「[四十三年五月]是月、車羅大屯海陽無等山頂、遣兵一千南掠」
- ^ 『高麗史』巻24高宗世家3「[四十三年秋八月]辛巳、車羅大・永寧公・洪福源等到甲串江外、大張旗幟、牧馬于田、登通津山、望江都、退屯安亥県」
- ^ 『高麗史』巻24高宗世家3「[四十三年九月]庚戌、車羅大等収軍北還」
- ^ 『高麗史』巻24高宗世家3「[四十四年六月]癸巳……蒙兵至南京、遣李凝請退兵、甫波大云『去留、在車羅大処分』。乙未、蒙兵至稷山、遣侍御史金軾、詣屯所、請客使三人来。辛亥、西北面兵馬使報『蒙古軍至西京』。壬子、金軾伴客使、如車羅大屯所。」
- ^ 『高麗史』巻24高宗世家3「[四十四年]秋七月丙辰、車羅大使佐十八人到昇天館。戊午、王邀宴于梯浦館」
- ^ 『高麗史』巻24高宗世家3「[四十四年秋七月]壬申、金軾自車羅大屯所安北府還云、車羅大曰『王若親来、我即回兵、又令王子入朝、永無後患』。癸酉……宰枢更奏、先遣宗親観変、然後可遣也、乃遣永安公僖、贈車羅大銀瓶一百・酒果等物。永安公僖自車羅大屯所還云、車羅大問曰『何為来』。対曰『大人、召還南下軍兵、且禁侵蹂禾穀、国王喜甚、遣臣奉一觴』。車羅大曰『太子到日、当退屯鳳州』」
- ^ 『高麗史』巻24高宗世家3「[四十四年秋七月]戊子、宰枢奏、請遣太子、以活民命、王猶豫未決。宰枢又遣金軾、告車羅大曰『待大軍回帰、太子親朝帝所』。車羅大許之曰『回軍後、王子可与松山等偕来』。於是、禁掠昇天府、甲串江外及諸島人民。時、内外蕭然、計無所出、但祈祷仏宇・神祠而已」
- ^ 『高麗史』巻24高宗世家3「[四十四年秋七月]壬寅、復遣金軾、賚酒果・銀幣・獺皮等物、如車羅大屯所餞之、以観其意。蒙兵陥神威島、孟州守胡寿被害」
- ^ 『高麗史』巻24高宗世家3「[四十四年九月]戊午、金軾馳報「車羅大收兵、退屯塩州、又督還南下甫波大軍馬」
- ^ 『元史』巻3憲宗本紀,「八年戊午……三月、命洪茶丘率師従札剌台同征高麗」
- ^ 『元史』巻154列伝41洪福源伝,「戊午、福源遣其子茶丘従札剌台軍、会高麗族子王綧入質、陰欲併統本国帰順人民、譖福源于帝、遂見殺、年五十三」
- ^ 『高麗史』巻24高宗世家3「[四十五年夏四月]己酉、王聞、車羅大遣使来、覘出陸之状」
- ^ 『高麗史』巻24高宗世家3「[四十五年]五月甲寅、王以兵衛渉海、御昇天府闕、引見車羅大客使波養等九人」
- ^ 『高麗史』巻24高宗世家3「[四十五年六月]己丑、蒙古余愁達・甫波大等各率一千騎来、屯嘉・郭二州」
- ^ 『高麗史』巻24高宗世家3「[四十五年六月]乙未、車羅大遣波乎只等六人来。丙申、幸梯浦館、引見波乎只。伝車羅大之言曰、皇帝勅云『高麗国如実出降、雖鶏犬、一無所殺。否則、攻破水内』。今国王及太子出降西京、則便可回兵。王曰『予既老病、不可遠行』。乃遣永安公僖、知中枢院事金宝鼎、如車羅大屯所」
- ^ 『高麗史』巻24高宗世家3「[四十五年六月]丁未、幸梯浦館。宝鼎奏曰、余愁達語臣云『皇帝以高麗之事、属我与車羅大、汝知之乎。吾以爾国降否、決去留耳。国王雖不出迎、若遣太子、迎降軍前、即日回軍、否則、縦兵入南界』。対曰『太子当来見耳』」
- ^ 『高麗史』巻24高宗世家3「[四十五年]八月癸未、永安公僖還自車羅大屯所。庚寅、車羅大以兵、来屯旧京。遊騎散入昇天府・交河・峯城・守安・童城、掠人民牧羊馬。癸巳、日中黒子、大如鶏子、翌日、又如人形。乙未、赦。丙申、幸賢聖寺。戊戌、車羅大遣蒙古大等十五人来」
- ^ 『高麗史』巻24高宗世家3「[四十五年]冬十月己卯、遣全光宰、饗車羅大、請退兵」
- ^ 『高麗史』巻24高宗世家3「[四十六年三月]壬子、別将朴天植偕車羅大使者温陽加大等九人還、奏曰朴希実・趙文柱至車羅大屯所、謂曰『我国、但為権臣所制、違忤帝命者有年矣、令已誅崔竩、将復旧都、遣太子朝見』。車羅大等、喜形於色曰『若太子来、則須及四月初吉』」
- ^ 『高麗史』巻24高宗世家3「[四十六年五月]丙午、北界兵馬使報『車羅大暴死、帝遣人来、執阿豆・仍夫・三弥等三人而去』」
- ^ 『元史』巻133列伝20塔出伝,「塔出、蒙古札剌児氏。父札剌台、歴事太祖・憲宗。歳甲寅、奉旨伐高麗、命桑吉・忽剌出諸王並聴節制。其年、破高麗連城、挙国遁入海島。己未正月、高麗計窮、遂内附、札剌台之功居多」
- ^ 訳文は村上1976,372-373頁より引用
- ^ 村上1976,336-338頁