ジャマルル・キラム3世
ジャマルル・キラム3世 | |
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生誕 |
1938年7月16日 フィリピン・スールー州・マインブン |
死没 |
2013年10月20日(75歳没) フィリピン・マニラ |
死因 | 多臓器不全 |
出身校 | マニュエル・ケソン大学 |
配偶者 | 妻2人 |
子供 | 8人 |
親 | 父:プンジュンガン・キラム |
家族 |
弟:イスマエル・キラム2世 本人含め13人兄弟 |
ジャマルル・キラム3世(英:Jamalul Kiram III、1938年7月16日 - 2013年10月20日)はスールー王国のスルタンの子孫[1]。スールー王国のスルタンを名乗っており、「世界一貧しいスルタン」だと自称していた[2]。2013年2月にマレーシアのサバ州に武装集団を送り込んだ[1]。
経歴
[編集]1938年7月16日、ジャマルル・キラム3世はフィリピンのスールー州にあるマインブンで生まれた[1]。父はプンジュンガン・キラムであり、彼は13人兄弟[3]の長男だった[2]。彼の父方の祖父はスールー王国の次期スルタンであったムワリル・ワシト2世だったが、彼が生まれる前の1936年に即位直前で急死していた[4]。彼はスールー州の高校を卒業すると[2]マニラにあるマニュエル・ケソン大学に進学し、法学の学位を取った[1]。
1984年、彼は次期スルタンとして公表され、1986年にホロで即位した[2]。だが、1999年には弟のイスマイル・キラム2世に譲位した[5]。
2007年にはフィリピンの上院(元老院)にTEAM Unityから出馬したが[6]落選した[1]。この選挙の際にインタビューを受けており、1992年に日本の財団から病院器具の援助を受けたこと、1999年に側近87人と共に中国を訪問し農業技術を交換する合意を締結したことなどを自身の功績として挙げた[6]。
2012年9月、同じくスールー王国のスルタンの家系からムズル・ライ・タン・キラムがスルタンに「即位」したと公表された[5]。キラム3世の父の兄であるイスマイル・キラム1世が死去した後、その息子ムハクッタ・キラムと弟のプンジュンガン・キラムの両名がそれぞれスルタンを主張しており、このとき即位を公表したムズル・ライ・タン・キラムはムハクッタ・キラムの息子であり後継者だった[5]。これに対し同年11月にキラム3世らは家族で集まり、一旦は退位していたジャマルル・キラム3世を対外的なスルタンとした[5]。
ラハダトゥ対立
[編集]2013年2月、キラム3世はサバ州に武装集団を派遣した[3]。当時、キラム3世はマニラ首都圏にあるタギグ市の自宅で指揮をとっており、本人の証言によれば派遣されたのは弟のアジムッディン・キラムを指揮官とした235人だったという[3]。派遣された集団は2月12日からラハダトゥの村を占拠し、警察と軍に包囲された[7]。3月5日から掃討戦が始まり11日に村が奪還されたが、立てこもっていた武装集団は森でのゲリラ戦を開始した[8]。『産経新聞』によれば、村奪還翌日の12日時点で累計の死者数は武装集団の54人を含め総計63人に達していたという[8]。
主張
[編集]事件当時の『産経新聞』のインタビューでは、「われわれに敬意を払わず支援も利益の分配もない。マレーシアは(サバの租借料を)5300リンギット(約16万円)しか支払っていない。それも年間だ」と語り、待遇改善を求めての派遣だと主張した[3]。また、モロ民族解放戦線やモロ・イスラム解放戦線の行為は犯罪だと述べ、協力関係にないと主張した[3]。自身がスールー王国の末裔である証拠としては、サバ州の租借料の支払いが英国からマレーシアへと引き継がれて現在でも支払われ続けていること、フェルディナンド・マルコスおよびそれ以降のフィリピン大統領に末裔だと認められていることを挙げた[3]。またスールー王国の風習を受け継いでいる例として、若い頃は地面に足をつけてはいけなかったので担がれて移動したというエピソードを紹介した[3]。
晩年
[編集]2013年10月20日、キラム3世はフィリピンのマニラで死去した[1]。娘によると、死因は多臓器不全だった[1]。
系譜
[編集]出典[9]より作成。複数の家系からスルタンを名乗る人物が現れる以前のスルタンは太字で示した。それ以降のスルタンを名乗った人物は下線で示し、また家系ごとに色分けした。
ジャマルル・アラム | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
バダルッディン2世 | ジャマルル・キラム2世 | ムワリル・ワシト2世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
イスマイル・キラム1世 | プンジュンガン・キラム | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ムハクッタ・キラム | ジャマルル・キラム3世 | イスマイル・キラム2世 | アジムッディン・キラム | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ムズル・ライ・タン・キラム | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g Floyd Whaleyoct (2013年10月20日). “Jamalul Kiram III, Self-Proclaimed Sultan, Dies at 75”. ニューヨーク・タイムズ 2017年11月9日閲覧。
- ^ a b c d “Jamalul Kiram III”. The Telegraph. (2013年10月25日) 2017年11月3日閲覧。
- ^ a b c d e f g 青木伸行 (2013年3月18日). “「スールー王国末裔の反乱」の背景 利益と権利の確保、国連の介入求める”. 産経ニュース (産経新聞) 2017年11月3日閲覧。
- ^ 山本博之 2014, p. 221.
- ^ a b c d 山本博之 2014, p. 222.
- ^ a b “CV of Jamalul D. Kiram III”. Philippine Daily Inquirer. (2007年2月23日). オリジナルの2012年10月6日時点におけるアーカイブ。
- ^ M. Jegathesan (2013年3月2日). “ボルネオ島に数百人のフィリピン人が立てこもり、14人死亡”. AFPBB news 2017年11月3日閲覧。
- ^ a b 青木伸行 (2013年3月12日). “サバ州掃討開始から1週間 短期決戦阻まれマレーシア苦慮”. 産経ニュース (産経新聞) 2017年11月3日閲覧。
- ^ 山本博之 2014, pp. 21、22.
参考文献
[編集]- 山本博之「「スールー王国軍」兵士侵入事件」(PDF)『地域研究』第14巻第1号、地域研究コンソーシアム、2014年3月、214-237頁、2017年11月3日閲覧。