ジェーン・モリス
ジェーン・モリス(Jane Morris, 旧姓バーデン(Burden), 1839年10月19日 - 1914年1月26日)は、イギリスの絵画モデルである。彼女は、ラファエル前派の理想像そのものであり、夫であったウィリアム・モリスやダンテ・ゲイブリエル・ロセッティのモデルでありミューズだった。
生涯
[編集]ジェーン・バーデンは馬丁のロバート・バーデンとその妻アン・メイジーの娘としてオックスフォードに生れた。ジェーンが生れた頃、両親はオックスフォードのセント・ピーター・イン・ジ・イースト教会の教区内、ホリウェル・ストリート裏手のセント・ヘレンズ・パッセージに住んでいた。この場所にはジェーンの生誕の地であることを示すブルー・プラーク が掲げられている[1]。ジェーンの母アンは教育を受けておらず、召使として奉公するためにオックスフォードに来たものと思われる。アンの幼少時について詳細は明らかでないが、極貧の中に育ったことは確かである。
1857年10月、ジェーン・バーデンは妹のエリザベス("ベッシー")とオックスフォードでドゥルリー・レーン劇団の芝居を観劇していた時、ちょうど劇場に来ていたダンテ・ゲイブリエル・ロセッティとエドワード・バーン=ジョーンズ に見出された。ロセッティとバーン=ジョーンズは、当時、アーサー王伝説を題材にしてオックスフォード・ユニオン壁画を制作していたグループのメンバーだった。ジェーンの美しさに感銘を受けた二人は彼女にモデルになるよう依頼した。ジェーンはまず、王妃グィネヴィアの壁画を制作していたロセッティのモデルになり、次に油彩『麗しのイズー』La Belle Iseult(テート・ギャラリー所蔵)を制作していたモリスのモデルになった。モリスもロセッティと同じく、ジェーンをモデルにして王妃グィネヴィアを描いたのである。この間にモリスはジェーンと恋に落ち、婚約した。
ジェーン・バーデンはほとんど教育を受けておらず、おそらく女中奉公にでるべく育てられたものと見られている。モリスと婚約した後、彼女は個人教授を受けた。ジェーンは鋭い知性を持っており、自分を創り変えていった。貪るように本を読み、フランス語と、のちにはイタリア語にも流暢になった。彼女はまたピアノの演奏も巧みであり、クラシック音楽の造詣も深かった。ジェーンの仕種や話しぶりが洗練されたものになったので、同時代の人々は彼女のことを「女王のような」と形容するほどであった。晩年の彼女は上流階級に加わったとしても困らないほどの気品を身につけていた。バーナード・ショーの劇『ピグマリオン』 Pygmalion (1914年)の登場人物、イライザのモデルとも言われている。
ジェーンは、1859年4月26日、オックスフォードのセント・マイケル教会においてウィリアム・モリスと結婚した。当時、彼女の父親はオックスフォード、ホリウェル・ストリート65番地の厩舎で別当をしていたという。
ジェーン・バーデンとウィリアム・モリスはまず、ケント、ベクスレイヒースのレッドハウスに住んだ。この間に彼らはジェーン・アリス(”ジェニー”)(1861年1月生まれ)と後に父の本の編集者になるメアリー(”メイ”)(1862年3月-1938年)の二人の娘をもうけた。この後、一家はロンドンのクイーンズ・スクエアに移り、また後に、主たる住居となるハマースミスのケルムスコット・ハウスに移った。1871年、モリスとロセッティは、オックスフォードシャーとウィルトシャーの州境にあるグロスタシャーのケルムスコット・マナーを共同名義で賃借した。この屋敷は現在一般に公開されている。契約してすぐに、モリスはアイルランドに向けて旅立った。ロセッティとジェーンはこの美しい屋敷に残り、家具調度を整えながらその夏を共に過ごした。ケルムスコット・マナーの賃借はジェーンとロセッティの関係に配慮して、彼ら全員をスキャンダルから守るためのものであったと考えられている。
ジェーン・モリスは画家ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティに深い愛情を感じるようになり、また、彼のお気に入りのミューズになった。二人の関係は1865年に始まり、親密さの程度は変化したが、1882年のロセッティの死まで続いたと考えられている。彼らは深い愛情で互いに結びついていた。ロセッティはジェーンからインスピレーションを得て詩を書き、絵画では、彼の後期の最高傑作のいくつかを描いた。ジェーンはロセッティがクロラール依存であることに気づき、彼の不眠症治療を助けた。この件以来ジェーンはロセッティから一定の距離をおくようになったが、彼が1882年に亡くなるまで二人は連絡を取りあった。
1884年、ジェーンは、親しい友人であり、後にカーライル伯爵夫人になるロザリンド・ハワードの家で催されたパーティで、詩人で政治活動家のウィルフレッド・スキャウェン・ブラントと出会った。二人はすぐにひかれ合ったとされており、遅くとも1887年までには恋愛関係になっている[2]。 彼らの性的な関係は1894年まで続き、その後もジェーンの死まで二人は親しい友人だった。
ジェーン・モリスはアイルランド自治運動の熱心な支持者であった。死の数ヶ月前、彼女は娘たちの将来のためにケルムスコット・マナーを買い取ったが、その屋敷を再び訪れることはなかった。
ウィリアム・モリスは1896年10月3日、ロンドン、ハマースミスのケルムスコット・ハウスにて死去。ジェーンは、1914年1月26日、バースのブロック・ストリート5番地に滞在中に死去した。
作品リスト
[編集]- The Blue Silk Dress, 1868年
- 『プロセルピナ』Persephone or Proserpine 1874年
- 『アスタルテ・シリアーカ』Astarte Syriaca 1875–79年 マンチェスター市立美術館
- 『ベアトリーチェ』(ジェーン・モリスの肖像)Beatrice, a Portrait of Jane Morris 1879年 油彩
- The Day Dream 1880年 油彩 ロンドン ヴィクトリア&アルバート博物館
- La Donna della Fiamma (炎の女)1877年 色チョーク マンチェスター市立美術館
- 『ラ・ドンナ・デッラ・フィネストラ』(窓辺の淑女) La Donna della Finestra 1879年 油彩 アメリカ、ハーバード大学付属 フォッグ美術館
- 『ラ・ドンナ・デッラ・フィネストラ』(窓辺の淑女) La Donna Della Finestra 1881年 (未完)
- 『ジェーン・モリス』Jane Morris 1860年頃 鉛筆
- 『ジェーン・モリス』Jane Morris 1865年
- 『マリアナ』Mariana 1870年 アバディーン美術館.
- 『パンドラ』Pandora 1869年
- 『パンドラ』Pandora 1871年
- 『ラ・ピア・デ・トロメイ』La Pia de' Tolomei 1866-1870年 油彩 カンサス州立大学付属スペンサー美術館
- 『モリス夫人の肖像』Portrait of Mrs William Morris
- 『ジェーン・モリスの肖像』Portrait of Jane Morris 1858年 ペン
- 『プロセルピナ』Proserpine 1873–1877年 油彩 ロンドン、テート・ギャラリー
- 『レヴェリー』Reverie 1868年 チョーク オックスフォード アシュモレアン博物館
- The Roseleaf 1865年 鉛筆
- Study of Guinevere for "Sir Lancelot in the Queen's Chamber" 1857年
ロセッティ撮影によるジェーン・バーデンの写真 [1].
ウィリアム・モリスの作品
- オックスフォード大学クライストチャーチの作品を含む多くのステンドグラス作品
イーヴリン・ド・モーガンの作品
- Portrait of Jane Morris 1904年
ジェーン・モリスがモデルだと推定される作品 (ロセッティ作)
- 『魔性のヴィーナス』Venus Verticordia 油彩 1863-1868年 ボーンマス、ラッセルコート美術館
脚注
[編集]- ^ Lisle, Nicola, Cinderella story. Oxfordshire Limited Edition, no. 249, pages 23–25, October 2007; and picture of blue plaque
- ^ Mancoff, p.98
参考文献
[編集]- Marsh, Jan (1986). Jane and May Morris: A Biographical Story 1839–1938. London: Pandora Press. ISBN 0-86358-026-2
- ジャン・マーシュ『ウィリアム・モリスの妻と娘』中山修一・小野康男・吉村健一訳、晶文社、1993年
- Marsh, Jan (2000). Jane and May Morris: A Biographical Story 1839–1938 ((updated edition, privately published by author) ed.). London: Jan Marsh
- Mancoff, Debra N. (2000). Jane Morris: The Pre-Raphaelite Model of Beauty. San Francisco: Pomegranate. ISBN 0-7649-1337-9