シャルル・ド・ロアン=ロシュフォール
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シャルル・ド・ロアン=ロシュフォール Charles de Rohan-Rochefort | |
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ロシュフォール公 | |
ロシュフォール公シャルル、シャルル=アントワーヌ・コワペル画、1776年 | |
在位 | 1728年 - 1766年 |
出生 |
1693年8月7日 フランス王国、パリ |
死去 |
1766年2月25日(72歳没) |
配偶者 | エレオノール=ウジェニー・ド・ベティシ・ド・メジエール |
子女 |
エレオノール=ルイーズ=コンスタンス シャルル=ジュール=アルマン ルイーズ=ジュリー=コンスタンス ウジェーヌ=エルキュール=カミーユ |
家名 | ロアン家 |
父親 | ゲメネ公シャルル3世・ド・ロアン |
母親 | シャルロット・エリザベート・ド・コシュフィエ |
シャルル・ド・ロアン=ロシュフォール(Charles de Rohan-Rochefort, 1693年8月7日 - 1766年2月25日[1])は、ブルボン朝時代フランスの貴族、廷臣。ロシュフォール公及びモントーバン公[1]。ロアン家の現在まで続く分流ロアン=ロシュフォール家の始祖。
生涯
[編集]ゲメネ公シャルル3世・ド・ロアンとその2番目の妻シャルロット・エリザベート・ド・コシュフィエ(1657年 - 1719年)の間の第11子・五男。1727年すぐ上の兄エルキュール=メリアデックがロアン家の家督を継ぐが、翌1728年弟のシャルルはロシュフォール=アン=イヴリーヌを中心とする所領の一部を分与され、分家を創設した[2] 。
1722年9月23日ウジェーヌ=マリー・ド・ベティシ・ド・メジエール侯爵の娘、エレオノール=ウジェニー・ド・ベティシ・ド・メジエール(1707年 - 1757年)[3]と結婚、間に4人の子をもうけた[1] 。
- エレオノール=ルイーズ=コンスタンス(1728年 - 1792年) - 1742年ジャン=ギヨーム・ド・メロード=ウェステルロー侯爵[4]と結婚
- シャルル=ジュール=アルマン(1729年 - 1811年) - ロシュフォール公及びモントーバン公
- ルイーズ=ジュリー=コンスタンス(1734年 - 1815年) - ブリオンヌ公ルイ・シャルル・ド・ロレーヌと結婚
- ウジェーヌ=エルキュール=カミーユ(1737年 - 1816年) - オンブリエール修道院院長
引用・脚注
[編集]- ^ a b c van de Pas, Leo. “Charles de Rohan”. Genealogics .org. 2010年4月8日閲覧。
- ^ Millar, Stephan. “The Ancien Régime Peerage (4 August 1789)”. Napoleonseries.org. 2010年3月29日閲覧。
- ^ 母親のメジエール侯爵夫人エリナー・オグルソープ=メジエールは、ジャコバイトのステュアート家を熱心に支持した政治家・軍人セオフィラス・オグルソープとその妻エリナー・オグルソープの娘で、自身も熱心なジャコバイト活動家だった。弟のジェームズ・オグルソープは北米ジョージア植民地の建設者である。
- ^ ジャン=フィリップ=ウジェーヌ・ド・メロード=ウェステルロー侯爵の長男。
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