エルキュール=メリアデック・ド・ロアン=ゲメネ
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エルキュール=メリアデック・ド・ロアン Hercule-Mériadec de Rohan | |
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ゲメネ公 モンバゾン公 | |
在位 | 1727年 - 1757年 |
出生 |
1688年11月13日 |
死去 |
1757年12月21日(69歳没) サント=モール |
配偶者 | ルイーズ・ド・ロアン |
子女 | 一覧参照 |
家名 | ロアン家 |
父親 | ゲメネ公シャルル3世・ド・ロアン |
母親 | シャルロット・エリザベート・ド・コシュフィエ |
エルキュール=メリアデック・ド・ロアン(Hercule-Mériadec de Rohan, 1688年11月13日 - 1757年12月21日[1])は、ブルボン朝時代フランスの貴族、廷臣。ゲメネ公、モンバゾン公爵。首飾り事件の中心人物ルイ=ルネ=エドゥアール・ド・ロアン枢機卿の父。
生涯
[編集]ゲメネ公シャルル3世・ド・ロアンとその2番目の妻シャルロット・エリザベート・ド・コシュフィエ(1657年 - 1719年)の間の第7子・四男[2]。長兄モンバゾン公フランソワ=アルマン(1682年 - 1717年)が父に先立って亡くなり、加えて次兄ロシュフォール伯ルイ=アンリ(1686年 - 1748年)が聖十字修道会の参事会員となり聖職禄を得る身となったため[2]、1727年父の死に伴い、その後継者となった。近衛ジャンダルム(憲兵)部隊に所属し、同部隊の旗手を務めた[2]。1757年所領の1つサント=モールで死去。
子女
[編集]1718年8月4日、同族のスービーズ公エルキュール=メリアデックの娘で又従妹のルイーズ・ド・ロアンと結婚[3][2]、間に7人の子をもうけた。
- シャルロット=ルイーズ″マドモワゼル・ド・ロアン″(1722年 - 1786年) - 1737年マッセラーノ公ヴィットーリオ・フィリッポ・フェレロ・フィエスキと結婚
- ジュヌヴィエーヴ=アルマンド(1724年 - 1766年) - ノートルダム・ド・マルケット修道院院長
- ジュール=エルキュール=メリアデック(1726年 - 1800年) - ゲメネ公及びモンバゾン公爵
- マリー=ルイーズ(1728年 - 1737年)
- ルイ=アルマン=コンスタンタン(1732年 - 1794年) - モンバゾン公(prince de Montbazon)
- ルイ=ルネ=エドゥアール(1734年 - 1803年) - 枢機卿、ストラスブール司教、フランス宮廷司祭長
- フェルディナン=マクシミリアン=メリアデック(1738年 - 1813年) - ボルドー大司教、カンブレー大司教
引用・脚注
[編集]- ^ van de Pas, Leo. “Hercule Mériadec de Rohan”. Genealogics .org. 2013年4月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年4月7日閲覧。
- ^ a b c d Anselme, Père. Histoire de la Maison Royale de France’’, tome 4. Editions du Palais-Royal, 1967, Paris. pp. 46, 64-68. (French).
- ^ Jeffares, Neil. “Dictionary of pastellists before 1800”. 2020年1月6日閲覧。
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