コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

シプラゲ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
シプラゲ
Šiprage
位置
シプラゲの位置(ボスニア・ヘルツェゴビナ内)
シプラゲ
ボスニア・ヘルツェゴビナにおける位置
座標 : 北緯44度27分 東経17度33分 / 北緯44.450度 東経17.550度 / 44.450; 17.550
行政
ボスニア・ヘルツェゴビナの旗 ボスニア・ヘルツェゴビナ
 共和国 スルプスカ共和国
 地方 バニャ・ルカ地方
 基礎自治体 コトル=ヴァロシュ
 集落 シプラゲ
人口
人口 (2013年現在)
  集落域 788[1]
その他
等時帯 中央ヨーロッパ時間 (UTC+1)
市外局番 387(051)

シプラゲボスニア語: Šiprage、Шипраге)は、ボスニア・ヘルツェゴビナスルプスカ共和国,バニャ・ルカ,コトル=ヴァロシュ英語版の集落。一時期コトル=ヴァロシュ下部の地方自治体となったが[2]、1964年に集落に戻っている。

気候

[編集]

地域Šiprageとその周辺地域は温暖な気候である。

Špirageのための長期的な気象パラメータ(「歴史」)
平均気温
(°C)
最低気温
(°C)
上限温度
(°C)
降雨
(mm)
I –1,7 –4,8 1,4 59
II 0,3 –3,6 4,2 63
III 4,6 –0,1 9,3 59
IV 9,1 3,9 14,3 74
V 13,6 8,1 19,2 90
VI 17,2 11,5 22,9 99
VII 18,9 12,6 25,3 81
VIII 18,4 11,9 24,9 76
IX 14,7 8,6 20,9 71
X 9,5 4,7 14,4 79
XI 4,4 1,0 7,8 100
XII 0,1 –2,7 3,0 88
  • 最も乾燥ヶ月とウェット間の降水量の変動が41ミリメートルです。平均温度から20.6℃の変化であります.[3]

名称

[編集]

名称は地方長官を務めた貴族のシプラガ家(Šipraga)に由来する[4]。祖先が原住民であったか入植者であったか、また如何にしてウルバンヤ川英語版(Vrbanja)の谷に広い土地を獲得し、税を得るようになったかは明らかではない。口伝と地籍図に寄れば、ヴラシチ山英語版(Vlašić)の麓を流れるウガル川英語版(Ugar)のポウガルエ谷英語版(Pougarje)から広がったとされている。

地理

[編集]

南東方向からウルバンヤ川が流れる。北西方向へ川を下ると、30km下流に地域の中心地であるコトル=ヴァロシュ、約60km下流にバニャ・ルカが位置している。山地に囲まれた長い谷であり、北から東にかけてグラヴィチ(Glavić、950m)を最高地点とするシプラシュコ・ブルド(Šipraško Brdo、シプラゲの丘)、南にヤシク(Jasik、769m)、南から東にかけてシャヒノヴィナ=ストラジュベニカ山地(Šahinovina–Stražbenica、848m)、 西にカペ(Kape、950m)を最高地点とするラドホヴァ(Radohova)、北から西にボルチュチ(Borčići、799m)を有するフラスチク(Hrastik)が位置している[5][6][7]

居住地は、ウルバンヤ川と支流沿いの長さ3km、幅2kmの地域に形成されている。飲料水が豊富であり、ツルクヴェニカ川英語版(Crkvenica)は水道網の一環を担っている。ウルバンヤ川に支流が合流する土地であり、右岸にムジチ川(Musić)、ツルクヴェニカ川、バキン川(Bakin)が、左岸にチョルコヴァク川英語版(Ćorkovac)、ザグラヂンスキ川(Zagradinski)、デミチュカ川英語版(Demićka)が流入している。

自然

[編集]

耕作地に適した土地が広がっており、落葉樹・針葉樹からなる森(トウヒ属モミ属、シロマツ、ヨーロッパクロマツ)、シデブナ属の疎林が混在する[8]。森林や山麓の草地には、ボスニア・ヘルツェゴビナの固有哺乳類英語版を含むクマ、イノシシ、オオカミ、キツネ、ハリネズミ、ヤブノウサギノロジカ、アナグマ、テン(マツテンムナジロテン)、リス、イイズナなどが生息している。

牧場、林地、集水域は生物群集を支える植生に覆われている。オボドニク英語版(Obodnik)へ向かう流れには、サケ類が生息している。しかし、最初にカワヒメマス英語版が、ついでドナウイトウが、そしてブラウントラウトが流域から徐々に数を減らしている[9]。カワヒメマスは1970年代には完全に姿を消し、様々な人為的・自然的要因によりサケ類の生存が危機に瀕している。2000年代の洪水によるものが顕著であるが、乱獲、泥や林業廃棄物による汚染も要因としてあげられる。流域の在来種の供給源であることから、遺伝子プールの再生が課題であり、減少した魚類の回復が試みられている。

歴史

[編集]
ローマ時代のバシリカの平面図(20.42 x 16.2 m)
A – ロビー(13.9 x 4.09m)
B – 主室(12.38 x 8.30m)
C – 別室(12.38 x 3.95m)
D – アプス
a – 窓
c – 扉(幅1.9m)
d – 扉(幅1.2m)
e – 扉
b, h – 燃焼室
i – コンソール
k – 人骨[4]

新石器時代にはウルバンヤ川の谷に最初の住民が現れたことが知られている。その後イリュリア人マザイイ族英語版が居住し、紀元前4世紀にはケルト人が入った[10][11]

ローマ時代の遺跡がツルクヴェニカ川がウルバンヤ川へ流入する地帯にいくつか残っており[12]、3世紀から5世紀にかけてのものとみられる初期キリスト教建築のバシリカが発掘されている[4]。考古学的な記録からローマの入植地が存在していたことが確認されており、また、12世紀のステチュツィが残されている[4][13]。ステチュツィは元はツルクヴェニカ川の流入地点に存在したが[4]、切り出され建築物の壁材として用いられた(宗教的な財産であったと信じたことが原因となった可能性がある)。最良の保存状態を保つ一つは、当初置かれていた地に近い、ウルバンヤ川に沈んでいるものである。 中世にはボスニアに属しドニ・クライ英語版(Donji Kraji、低地州)の一部となったが、1519年にオスマン帝国により占領された[14][15]。1878年にオーストリア=ハンガリー帝国の一部となり、1918年にはユーゴスラビア王国に移った。

第二次世界大戦中、パルチザンの拠点となり、要塞とデミチュカ川の谷に設けられた第12野戦病院(第5軍団所属)の所在地であった。戦争初期には地元の数部隊が存在するのみであったが、のちにより大きな規模の部隊が編成された。重要な拠点であったため、ドイツとドラジャ・ミハイロヴィッチ指揮下の部隊を含むチェトニックから幾度も爆撃された。ズロヴァリチ(Zlovarići)とヅニチ(Dunići)間のブレストヴァチェ(Brestovača)の深い崖は[16])、ドイツ軍機による発見は困難であった。

1943年から1944年にかけて、かつてのユーゴスラビアとボスニア・ヘルツェゴビナでは「第6次攻撃」と呼ばれる期間に第5軍団イタリア語版隷下に第12野戦病院が設立された。病院を主目標としたシプラゲ近郊へのドイツ空軍による複数回の爆撃にもかかわらず、1944年1月4日まで病院は他の地に存在するとの作戦により残存し続けた。病院は近郊の村へ移り、さらに遠方のコリチャニ英語版(Korićani)へ移転した。約600人の戦傷病者はストパン英語版(Stopan)とロジチ(Lozići)からパリヴク英語版(Palivuk)、チュドニチ英語版(Čudnić)、クルシェボ・ブルド英語版(Kruševo Brdo)へ移動した。

1944年1月6日にストパン・ケルレ(Kerle)間のラスクルシチェ(Raskršće)防衛線を突破したドイツ軍が翌朝侵入し、反攻が行われた15日までとどまった。後にドイツ軍は正確な情報を有していなかったことが判明した[17][18][19]。戦後の1960年代になって、森の中に埋葬されていたパルチザンの遺体が、町中のパルチザン記念墓地(ザグラヂネ、Zagradine)に改葬された[20]

住民

[編集]
住民の民族構成[21][22]

母集団

[編集]
ゴシナ 1879. 1885. 1895. 1910 1921. 1931. 1948. 1953. 1961. 1971. 1981. 1991. 2013.
人口 64 (1.312♦) 277 (1.575♦) 88 (1.426♦) 159 (760♦) 999 5.098* 1.774 7.764* 828 822 1.183 952 788

[23]

  • 1931. i 1953.: 市町村 Šiprage

♦ エリア Šiprage.

♦ Područje Šipraga

年度 ボシュニャク人 セルビア人 クロアチア人 ユーゴスラビア人 不明・その他 合計
1971[24] 422(51.33%) 370(45.01%) 0 21(2.55%) 9(1.09%) 822
1981[25] 711(60.10%) 320(27.04%) 6(0.50%) 136(11.49%) 10(0.84%) 1,183
1991 745(78.25%) 168(17.64%) 1(0.10%) 32(3.36%) 6(0.63%) 952

出典

[編集]
  1. ^ Statistike za Naselje Šiprage”. Nezavisna Agencija za Statistiku Bosne i Hercegovine. 2017年3月28日閲覧。
  2. ^ http://pod2.stat.gov.rs/ObjavljenePublikacije/G1953/pdf/G19534001.pdf.
  3. ^ https://en.climate-data.org/location/905786/
  4. ^ a b c d e Vjenceslav Radimski (1892). “Ostanci rimskih naseobina u Šipragi i Podbrgju, za tim starobosanski stećci u Šipragi i uz Vrbanju u Bosni”. Glasnik Zemaljskog muzeja u Sarajevu I (IV): 75–80. 
  5. ^ Vojnogeografski institut, Ed. (1955): Travnik (List karte 1:100.000, Izohipse na 20 m). Vojnogeografski institut, Beograd / Military Geographical Institute, Ed. (1955): Travnik (map sheet 1: 100,000, Contour lines at 20 m). Military Geographical Institute, Belgrade.
  6. ^ Spahić M. et al. (2000): Bosna i Hercegovina (1:250.000). Izdavačko preduzeće „Sejtarija", Sarajevo., The Map
  7. ^ Mučibabić B., Ed. (1998): Geografski atlas Bosne i Hercegovine. Geodetski zavod BiH, Sarajevo, ISBN 9958-766-00-0., pp: 4-5.
  8. ^ Siprage (KOTOR VAROS)”. geoview.info. 2015年7月29日閲覧。
  9. ^ Đurašinović D.: “Lokalni eklološki akcioni plan Općine Kotor Varoš/Local environmental action plan of the Kotor Varoš Municipality” (PDF). 2017年3月27日閲覧。
  10. ^ Mesihović S. (2011). Filozofski fakultet. ed. Rimski vuk i ilirska zmija – Posljednja borba. Sarajevo. pp. 2-33. ISBN 978-9958-625-21-3 
  11. ^ Abdić K. (2014). Filozofski fakultet. ed. Ilirski narodi sjeverozapadne Bosne i Hercegovine. Sarajevo. pp. 56-63 
  12. ^ "at the field of Omer Bey Šipraga," 1891
  13. ^ Richter E. (1905): II. Historička i politička geografija. Glasnik Zemaljskog muzeja u Sarajevu, Godina XVI, Knjiga 1: 275–321.
  14. ^ Malcolm N. (1996): Bosnia: A Short History. New, Updating Edition, New York University Press, ISBN 0814755615; pp 10-32
  15. ^ Benac A., Ed. (1986): Bosna i Hercegovina / Bosnia and Herzegovia / Bosnien und Herzegowina. Svjetlost, Sarajevo, pp 31-68
  16. ^ Selo (Veselo) Dunići”. Furaj.ba - S nama u avanturu!. 2016年3月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年7月29日閲覧。
  17. ^ Petrić N., Ed. (1985): Opštine Kotor-Varoš i Skender-Vakuf u NOB-u 1941-1945. Radnički univerzitet „Đuro Pucar Stari", Kotor Varoš.
  18. ^ Đondović R., Ed. (1989): Sanitetska služba u narodnooslobodilačkom ratu Jugoslavije 1941-1945, Knj. 2: Nastanak i razvoj sanitetske službe u oružanim snagama narodnooslobodilačkog pokreta u Bosni i Hercegovini, Crnoj Gori, Hrvatskoj i Makedoniji; Biblioteka Ratna prošlost naroda i narodnosti Jugoslavije, knj. 361. Monografija Jedinica NOV i PO Jugoslavije, Knj. 150). Vojnoizdavački i novinski centar, Sanitetska uprava SSNO, Beograd.
  19. ^ Samardžija S. (1983): Četrnaesta srednjobosanska NOU brigada. Skupština opštine Prnjavor, Banja Luka.
  20. ^ Karta Bosna i Hercegovina - Udaljenosti.com”. udaljenosti.com. 2015年7月29日閲覧。
  21. ^ Book: "Nacionalni sastav stanovništva – Rezultati za Republiku po opštinama i naseljenim mjestima 1991.", statistički bilten br. 234, Izdanje Državnog zavoda za statistiku Republike Bosne i Hercegovine, Sarajevo.
  22. ^ Popis po mjesnim zajednicama” (PDF). 2016年2月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年3月28日閲覧。
  23. ^ Štatistički zabod Zemaljske vlade BiH, ed (1880). Štatistika miesta i pučanstva Bosne i Hercegovine – Službeno izdanje. Sarajevo: Zemaljska vlada Bosne i Hercegovine 
  24. ^ Nacionalni sastav stanovništva SFR Jugoslavije 1971.”. stat.gov.rs. 2015年9月16日閲覧。
  25. ^ Nacionalni sastav stanovništva SFR Jugoslavije 1981.”. stat.gov.rs. 2015年9月16日閲覧。

外部リンク

[編集]