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シエルバ・オートジャイロ・カンパニー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
シエルバ・
オートジャイロ・カンパニー
業種 航空機
オートジャイロヘリコプター
設立 1926年
創業者 James George Weir ウィキデータを編集
解散 1975年
本社 イングランド, サウサンプトン
主要人物
フアン・デ・ラ・シエルバ
ジェームズ・ジョージ・ウィアー英語版
J.A.J.ベネット英語版

シエルバ・オートジャイロ・カンパニー (Cierva Autogiro Company) は、1926年にスペイン人航空技術者のフアン・デ・ラ・シエルバと、スコットランド人実業家ジェームズ・ジョージ・ウィアー英語版によってイギリスで設立された航空機メーカーである[1]

歴史

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フアン・デ・ラ・シエルバ

1920年からオートジャイロの製作を始めていたフアン・デ・ラ・シエルバは、1925年に渡英し空軍省シエルバ C.6のデモンストレーションを行った。デモンストレーションは成功をおさめ、スコットランド人の実業家でイギリス空軍パイロットでもあったジェームズ・ジョージ・ウィアー英語版の援助を受け、翌1926年シエルバ・オートジャイロ・カンパニーをイギリスで設立した[1]

C.6の改良モデルとしてC.8英語版(6機製造)を開発。この機種はアメリカ合衆国に持ち込まれ同国でのオートジャイロ開発の礎となったほか、ソ連製のオートジャイロとして開発されたKASKR-1の参考元にもなった。その後C.19英語版(約30機製造)で性能をある程度安定化させることに成功、そして1933年開発のC.30英語版は協力企業のアブロ社の他、フランスのリオレ・エ・オリビエ、ドイツのフォッケウルフでもライセンス生産された成功作となった[1]

フアン・デ・ラ・シエルバは、1936年にクロイドン空港で発生した旅客機墜落事故英語版で命を落とした[1][2]。1936年から1939年までは、ジェームズ・アラン・ジェイミソン・ベネット英語版博士が同社の技術部門トップを務め[1]、会社はジェームズ・ジョージ・ウィアーの親族が経営するG & J. ウィアー有限会社英語版の援助を受けて存続した。

ベネット博士は1936年に、イギリス海軍向けにジャイロダインのシステムを考案し、C.41 ジャイロダインとして空軍省に提案、1939年に特許として認められたが、第二次世界大戦勃発により開発は中断された。ベネット博士は1945年にフェアリー・アビエーションに入社し、世界初のジャイロダイン(複合ヘリコプター)となったフェアリー FB-1 ジャイロダイン英語版や、改良型のフェアリー ジェット・ジャイロダインを開発した。

大戦中、ベネット博士の抜けたシエルバ社はG & J. ウィアー社の航空機部門という位置づけでイギリス軍向けの開発を細々と継続していたが、1943年にウィアー社の援助によりシエルバ・オートジャイロ・カンパニーのブランド名が復活し、イギリス軍向けにシエルバ W.9(ヘリコプター)の提案を行った(機種型式名の"W"はウィアー社を意味する)。W.9の初飛行は1945年までずれ込んだが、この後、さらに大型の機体であるシエルバ W.11 エアホース英語版を開発し、1948年に初飛行させた。エアホースのテスト機が墜落したことでシエルバ社の技術責任者ら3名が命を落とし、これを受けてウィアー社はシエルバ社の再建をあきらめ、イギリス軍と間で残っていた開発契約は株主となっていたサンダース・ロー社に移管された[1]。シエルバ社で最後に開発されていたシエルバ W.14は、サンダース・ロー W.14 スキーターとして1957年にイギリス軍に就役した。

シエルバ社は1960年代にロータークラフト社の親会社となり、共同でシエルバ CRツイン英語版を開発し、1969年から71年にかけて試作機を初飛行させたが、開発資金に行き詰まり1975年に会社は清算された。

開発機種

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シエルバ・オートジャイロ・カンパニー設立以前

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シエルバ C.6

シエルバ・オートジャイロ・カンパニー設立後

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シエルバ C.8
シエルバ C.19
シエルバ C.30
W.11 エアホース

脚注・出典

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関連項目

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外部リンク

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