サンチャ・サンチェス・デ・パンプローナ
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サンチャ・サンチェス・デ・パンプローナ Sancha Sánchez de Pamplona | |
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レオン王妃 | |
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在位 | 923年 - 924年 |
出生 |
10世紀 パンプローナ王国 |
死去 |
959年9月/963年7月 カスティーリャ伯領 |
埋葬 | カスティーリャ伯領、コバルビアス参事会教会 |
結婚 |
923年 931年以前 932年ごろ |
配偶者 | レオン王オルドーニョ2世 |
アラバ伯アルバロ・エラメリス | |
カスティーリャ伯フェルナン・ゴンサレス | |
子女 | 本文参照 |
家名 | ヒメノ家 |
父親 | パンプローナ王サンチョ・ガルセス1世 |
母親 | トダ・デ・パンプローナ |
サンチャ・サンチェス・デ・パンプローナ(スペイン語:Sancha Sánchez de Pamplona, 959年9月から963年7月の間に没)[注釈 1]は、パンプローナ王サンチョ・ガルセス1世とトダ・デ・パンプローナの娘。3度目にカスティーリャ伯フェルナン・ゴンサレスと結婚した。
結婚
[編集]サンチャは3度結婚した。
最初に、923年にレオン王オルドーニョ2世と結婚した。この結婚はキリスト教国の王家同士の同盟の一環であり、バヌ・カシ家の決定的な敗北につながった。この短い結婚で子供は生まれなかった。
924年にオルドーニョ2世が死去した後、サンチャはアラバ伯アルバロ・エラメリス(931/2年没)と結婚した[2]。この結婚で生まれた2子は、レオン王国で活動した。
- エラメル・アルバレス - ビジャラミエルの創建者。恐らく、996年にポルトゥカーレ伯ゴンサロ・メネンデスに代わりレオン王ベルムード2世の副官となったことが中世の記録にみられるアルバロ・エラメリスの父である[3]。
- フォルトゥン・アルバレス - サアグン修道院のいくつかの特許状にみられ、兄弟や他のバスク=ナバラ人と一緒にレオン王ラミロ2世の宮廷にいたことが確認できる[3]。
932年ごろに政治的理由によりカスティーリャ伯フェルナン・ゴンサレスと結婚し[4]、2番目の夫の死後サンチャが支配していたブルゴスの領地を寡婦財産とした[注釈 2]。2人の間に以下の子女が生まれた。
- ゴンサロ・フェルナンデス(933/5年 - 959年) - フロニルデ・ゴメス(1009年没)と結婚。フロニルデはゴメス・ディアスの娘でカスティーリャ伯ディエゴ・ロドリゲス・ポルセロスの孫とみられる[5]。
- サンチョ・フェルナンデス(933/5年 - 956年)[5]
- ムニオ・フェルナンデス(941年以前生)[注釈 3][注釈 4]
- ガルシア・フェルナンデス(941/4年[注釈 5] - 995年) - 970年の父フェルナン・ゴンサレスの死後、カスティーリャ伯領を継承した[5]。リバゴルサ伯ラモン2世とガルサンド・ド・フェザンサックの娘アバ・デ・リバゴルサと結婚[8]。
- ウラカ・フェルナンデス(1007年没) - 944年にレオン王オルドーニョ2世オルドーニョ3世と結婚、958年にレオン王オルドーニョ2世オルドーニョ4世と結婚、962年にナバラ王サンチョ・ガルセス2世と結婚[5][9]。
- ムニアドナ・フェルナンデス(1014年以降没) - サルダーニャ伯ディエゴ・ムニョス[5][9]とテグリディアの息子のサルダーニャ伯・リエバナ伯ゴメス・ディアスと結婚
- フロニルデ・フェルナンデス(1014年以降没)[10] - サンティジャナ伯ロダニオ・ディアスと結婚
サンチャはサン・ペドロ・デ・アルランサ修道院に埋葬されたが、1841年に夫フェルナン・ゴンサレスの遺骨とともにサン・コスメ・イ・サン・ダミアン・デ・コバルビアス参事会教会に移された。
注釈
[編集]- ^ サンチャは、959年9月4日に、フェルナン ゴンサレスと息子のゴンサロとともに、中世の文書に最後に確認される。963年7月5日にはフェルナン・ゴンサレスが子供たちとともに記録されているが、サンチャは一緒ではなく、サンチャがすでに死亡しており、964年5月に初めて登場したウラカとはまだ結婚していないことを示す文書が確認された[1]。
- ^ この結婚が初めて記録されたのは、935年8月5日付のサン・ペドロ・デ・カルデーニャ修道院の文書によると、フェルナン・ゴンサレスと母親のムニアドナ、妻のサンチャと2人の子供、ゴンサロとサンチョが寄付を行った[4]。
- ^ ムニオは941年12月23日付の文書で、両親と2人の兄と共に文書に初めて確認される。夫婦の娘たちは、その日付にはまだ確認されない[4]。
- ^ マルガリータ・トレスによると、ムニオは970年に伯領を去り、宮廷貴族に加わった[5]。一方、ゴンサロ・マルティネス・ディエスは、彼が非常に若くして亡くなったと考えており、「ペレス・デ・ウルベルが主張するように、945年9月3日にサン・ペドロ・デ・カルデーニャの修道院に身も心も捧げたムニオと特定することはできない(...) [なぜなら] カルデーニャに届けられた特許状のすべての体裁は、伯爵の息子の宗教的地位に見合っていない。」[6]
- ^ 944年2月1日に文書で最初に確認される。「...彼の3人の兄の死だけが、ある日彼が父親の後を継いでカスティーリャ伯領とアラバ伯領の首長になることを可能にした。」[7]
脚注
[編集]- ^ Martínez Díez 2005, pp. 419–420.
- ^ Martínez Díez 2005, pp. 201, 272, 309, 444.
- ^ a b Fernández Martín & Fernández Martín 1964, p. 14.
- ^ a b c Martínez Díez 2005, p. 329.
- ^ a b c d e f Torres Sevilla-Quiñones de León 1999, p. 213.
- ^ Martínez Díez 2005, p. 330.
- ^ Martínez Díez 2005, pp. 330–331.
- ^ Martínez Díez 2005, pp. 460–461.
- ^ a b Martínez Díez 2005, p. 440.
- ^ Martínez Díez 2005, pp. 394, 440.
参考文献
[編集]- Fernández Martín, S.J., Luis; Fernández Martín, Pedro (1964). Villarramiel de Campos. Nuevos datos para su historia. Madrid: Escuela Gráfica Salesiana. OCLC 743652610
- Martínez Díez, Gonzalo (2005). El Condado de Castilla (711-1038). La historia frente a la leyenda. Valladolid: Junta de Castilla y León. ISBN 84-9718-275-8
- Torres Sevilla-Quiñones de León, Margarita Cecilia (1999). Linajes nobiliarios de León y Castilla: Siglos IX-XIII. Salamanca: Junta de Castilla y León, Consejería de educación y cultura. ISBN 84-7846-781-5