サルバン (ウイグル人)
サルバン(モンゴル語: Sarban、生没年不詳)は、モンゴル帝国に仕えたウイグル人の一人。『元史』における漢字表記は沙剌班(shālàbān)。ウカアト・カアン(順帝トゴン・テムル)の側近の一人であったことで知られる。
『元史』に列伝はないが楊瑀の『山居新話』でその事蹟について多く言及されており、『山居新話』に基づいて『新元史』巻136列伝33で立伝されている。
概要
[編集]サルバンの祖先は天山ウイグル王国に仕えていたカラ・イカチ・ブイルクで、英宗・泰定帝・明宗・文宗などに仕えたアリン・テムルの息子に当たる[1]。サルバンは大元ウルス最後の皇帝として知られるトゴン・テムル(順帝ウカアト・カアン)の側近の一人で、トゴン・テムルが即位の儀礼として仏戒を受けた時にはともに戒を受けた[2]。トゴン・テムルの即位後、サルバンは師としてトゴン・テムルの側近くに仕え、後に中書平章の地位を授けられた。サルバンは「山斎」と号したことから、ウカアト・カアン自らが書した「山斎」の二大字を下賜されている[3]。
サルバンはウカアト・カアンの師として常に左右に侍っており、両者は親密な関係にあったとする逸話が残されている。ある時はサルバンが便殿で横になって微睡んでいたため、ウカアト・カアンは自らが腰掛けていたドルベジン(Dörbeǰin>朶児別真,四角形の敷物)を枕代わりに置いたという。またある時はサルバンの額の左上に出来物ができたため、ウカアト・カアンは自ら軟膏を手にとって塗ったという[4]。
後至元年間(1335年-1440年)、位人臣を極めたバヤン太師は権勢を擅にし、これにおもねる者が多く現れた。ある時、王爵を有する者が「『セチェン(Sečen>薛禅)』という言葉はかつて多くの者が名前として用いていましたが、世祖皇帝(=クビライ)の尊号(=セチェン・カアン)となってより敢えて称する者はいなくなりました。今バヤン太師の功徳は広く知られており、まさに『セチェン』の名を与えるべきです」と上奏したが、これはバヤンの腹心である御史大夫テムル・ブカが唆して行わせたものであった。これに対し、サルバンは「万一要請に従って慣例を曲げれば、まったく適当であるとはいえない」として反対し、欧陽玄・掲傒斯らの協議によって「薛禅(セチェン)」でなく「元徳上輔」の称号が授けられることになった[5]。
この他にもバヤンに対して「龍鳳牌」を作成することや、カアンの出す命令文の常套句である「上天眷命皇帝聖旨」を用いることなど、バヤンを皇帝と同格の存在と遇するような工作が屡々行われた。『山居新話』の著者の楊瑀はバヤンが「セチェン」を称しようとしたことを、九錫(古代中国で、皇帝のみ使用が許された品を臣下に許可することで恩賞とするもの)以上のことであると評している[6]。死後、北庭王に追封されている。
ブイルク家
[編集]- カラ・イカチ・ブイルク(Qara yiqači buyiruq >哈剌亦哈赤北魯/hālà yìhāchì bĕilŭ)
- ユトゥス・イナル(Yutus Inal >月朶失野訥/yuèduǒshī yěnè)
脚注
[編集]- ^ 『元史』巻124列伝11哈剌亦哈赤北魯伝,「哈剌亦哈赤北魯、畏兀人也。……子曰沙剌班、曰禿忽魯、曰六十、曰咱納禄。沙剌班、累拝中書平章政事・大司徒・宣政院使」
- ^ 『山居新話』巻1,「累朝於即位之初、故事須受仏戒九次、方登大宝、而同受戒者、或九人、或七人、訳語謂之『暖答世』。一日、今上入戒壇中、見馬合哈剌仏前以羊心作供。上向沙剌班学士曰『此是何物』。班曰『此羊心也』。上曰『曽聞用人心肝為供、果有之乎』。班曰『聞有此説、未嘗目撃。問之剌馬可也【剌馬即帝師】』。上命班叩之。答曰『有。凡人萌歹心害人者、事覚則以其心肝作供耳』。遂以此言復奏。上曰『人有歹心、故以其心肝為供。此羊曽害何人、而以其心為供耶』。剌馬竟無以答」
- ^ 『山居新話』巻3,「北庭文定王沙剌班、号山斎、字敬臣、畏吾人、今上皇帝之師也。上嘗御書『山斎』二大字賜之。至元後庚辰、為中書平章」
- ^ 『山居新話』2,「[至正八年]沙剌班学士者、乃今上之師也、日侍左右。一日体倦、於便殿之側偃臥、因而睡濃。上自以所坐朶児別真【即方褥也】。親扶其頭而枕之。又班公嘗於左額上生小癤、上親於合鉢中、取仏手膏、攤於紙上、躬自貼之。比調羹之栄、可謂至矣」
- ^ 『山居新話』巻3,「後至元間、伯顔太師擅権、諂佞者填門。略挙其尤者三事、漫識於此、餘者可知矣。有一王爵者駅奏云『『薛禅』二字、往日人皆可為名、自世祖皇帝尊号之後、遂不敢称。今伯顔太師功徳隆重、可以与『薛禅』名字』。時御史大夫帖木児不花、乃伯顔之心腹、毎陰嗾省臣、欲允其奏。近侍沙剌班学士従容言曰『万一曲従所請、大非所宜』。遂命欧陽学士・掲監丞会議、以『元徳上輔』代之、加於功臣号首」
- ^ 『山居新話』巻3,「又典瑞院都事建言『凡省官提調軍馬者、必佩以虎符。今太師功高徳重、難与諸人相同、宜造龍鳳牌、以寵異之』。遂製龍鳳牌三珠、以大答納嵌之、飾以紅剌鴉忽雑宝。牌身脱鈒『元徳上輔』功臣号字、嵌以白玉。時急無白玉、有可督責甚急、緝聞一解庫中有典下白玉朝帯、取而磨之。此牌計直数万定、事敗毀之、即以其珠物給主、蓋厥価尚未酬也。又京畿都運納速剌言『伯顔太師功勲冠世、所授宣命、難与百官一体、合用金書以尊栄之』。宛転数回、遂用金書『上天眷命皇帝聖旨』八字、餘仍墨筆、以塞其望。明年黜為河南左丞相、行事之夕、雖紙筆亦不経省房取用、恐泄其事、遂於省前市鋪買札付紙写宣与之。余嘗以否泰之理、灼然明白、因挙似於用事者、可不戒歟。梁冀跋扈、止不過比鄧禹・蕭何・霍光而已。曹操之僭、固不容誅。『薛禅』之説、又過於九錫多矣」