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アリン・テムル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

アリン・テムルモンゴル語: Arin temür、生没年不詳)は、モンゴル帝国に仕えたウイグル人の一人。『元史』における漢字表記は阿隣帖木児(ālín tièmùér)。

概要

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アリン・テムルの祖先は天山ウイグル王国に仕えていたカラ・イカチ・ブイルクで、アリン・テムルはカラ・イカチ・ブイルクの息子ユトゥス・イナル(Yutus Inal/月朶失野訥)の息子キチク・ソンクル(Kičig Songur/乞赤宋忽児)の息子ウルスマン(Ürsman/月児思蛮)の息子アルトミシュ・テムル(Altmiš temür/阿的迷失帖木児)の息子にあたる[1]

アリン・テムルはウイグル文字に通達すると同時に博識なことで知られ、翰林待制を経て栄禄大夫・翰林学士承旨とされた。ゲゲーン・カアン(英宗シデバラ)の治世中はカアンの側近くに仕え、古代の哲学者や王侯の善行を教えたという。また経書の翻訳や故実の記録に携わり、モンゴル帝国の国政の中枢たるクリルタイの記録を取った[2]

1328年にはトク・テムルを擁する大都派とラジバグを擁する上都派の間で天暦の内乱が起こり、大都派が一時は勝利を収めたものの、チャガタイ・ウルスの支援を受けたコシラがモンゴル高原を制圧するとトク・テムル側がコシラに帝位を譲ることになった。アリン・テムルは北上してコシラを迎える人員に加わり、アリン・テムルと対面したコシラは「これぞ朕の師である」と語ったという。しかしコシラは即位直後に毒殺され、改めて即位したトク・テムルの治世の1330年(天暦3年/至順元年)に光禄大夫・知経筵事の地位を授けられた[3]

子孫

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アリン・テムルにはサルバン(Sarban/沙剌班)、トゥクルク(Tuqluq/禿忽魯)、六十、チャナル(Čanar/咱納禄)という息子がおり、この中でもサルバンが最も出世し中書平章政事・大司徒・宣政院使の地位に至った[4]

ブイルク家

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脚注

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  1. ^ 『元史』巻124列伝11哈剌亦哈赤北魯伝,「哈剌亦哈赤北魯、畏兀人也。……月朶失野訥卒、子乞赤宋忽児、在太宗時襲爵、賜号答剌罕。子四人曰塔塔児、曰忽棧、曰火児思蛮、曰月児思蛮。世祖命火児思蛮従雪雪的斤鎮雲南。月児思蛮事憲宗、襲父爵、兼領僧人。後因軍帥札忽児台拠別失八里、尽室徙居平涼。与其子阿的迷失帖木児入覲、世祖詔入宿衛為必闍赤、命従安西王忙哥剌出鎮六盤。安西王薨、其子阿難答嗣。成宗即位、遣使入朝、因奏『阿的迷失帖木児父子、本先帝旧臣、来事先王、服勤二十餘年矣。若終老王府、非所以尽其才也、願以帰陛下用之』。成宗可其奏、授阿的迷失帖木児汝州達魯花赤、積官秘書太監。卒」
  2. ^ 『元史』巻124列伝11哈剌亦哈赤北魯伝,「子阿隣帖木児。阿隣帖木児、善国書、多聞識、歴事累朝、由翰林待制累遷栄禄大夫・翰林学士承旨。英宗時、以旧学日侍左右、陳説祖宗以来及古先哲王嘉言善行。翻訳諸経、紀録故実、総治諸王・駙馬・番国朝会之事」
  3. ^ 『元史』巻124列伝11哈剌亦哈赤北魯伝,「天暦初、北迎明宗入正大統、一見歓甚、顧左右曰『此朕師也』。天暦三年、進光禄大夫・知経筵事」
  4. ^ 『元史』巻124列伝11哈剌亦哈赤北魯伝,「子曰沙剌班、曰禿忽魯、曰六十、曰咱納禄。沙剌班、累拝中書平章政事・大司徒・宣政院使」

参考文献

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  • 元史』巻124列伝11哈剌亦哈赤北魯伝
  • 新元史』巻136列伝33哈剌亦哈赤北魯伝
  • 蒙兀児史記』巻45列伝27哈剌亦哈赤北魯伝