サラーム・ファイヤード
サラーム・ファイヤード سلام فياض | |
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サラーム・ファイヤード | |
生年月日 | 1952年4月12日(72歳) |
出生地 | パレスチナ、デイル・アル=グスーン |
出身校 |
テキサス大学大学院、 セント・エドワーズ大学大学院、 ベイルート・アメリカン大学 |
所属政党 | 第3の道 |
称号 |
経済学博士、 経営修士、 化学学士 |
配偶者 | あり |
第5代首相 | |
内閣 | ファイヤード内閣 |
在任期間 | 2007年6月15日 - 2013年6月6日 |
大統領 | マフムード・アッバース |
内閣 | ファイヤード内閣 |
在任期間 | 2013年3月 - 2013年6月 |
大統領 | マフムード・アッバース |
内閣 | ファイヤード内閣 |
在任期間 | 2007年6月 - 2007年9月 |
大統領 | マフムード・アッバース |
内閣 | クレイ内閣 |
在任期間 | 2003年 - 2006年 |
大統領 |
ヤーセル・アラファート マフムード・アッバース |
内閣 | アッバース内閣 |
在任期間 | 2002年 - 2003年 |
大統領 | ヤーセル・アラファート |
サラーム・ファイヤード(アラビア語: سلام فياض、Salām Fayāḍ、1952年4月12日 - )は、パレスチナの政治家。同国首相(第5代)、財務相などを歴任した。立法評議会議員(1期)。日本語メディアでは、サラム・ファイヤドと表記されることが多い。
外務相を務めた。
概要
[編集]ヨルダン川西岸地区にあるナーブルス近郊のデイル・アル=グスーン出身。
1987年、国際通貨基金(IMF)の相補佐官に就任。1992年の相顧問を経て、1996年よりIMFヨルダン川西岸地区・ガザ地区代表に就任。
政界入り
[編集]2002年、首相に就任したマフムード・アッバースにその財政手腕を買われ、パレスチナ自治政府の財務相に就任。アッバースは1年で首相を退任するも、後任のアフマド・クレイ内閣でも財務相に再任された。
2005年、ハナーン・アシュラーウィーとともに立法評議会に出馬するための政党「第3の道」を結成し、翌1月の立法評議会選挙にて当選。選挙ではハマースが圧勝し、イスマーイール・ハニーヤを首相とする新政権の発足に伴い財務相を退任する。しかし2007年4月、挙党一致による第2次ハニーヤ内閣の発足に伴い再び財務相に就任。
首相
[編集]2007年6月、ハマースとファタハの対立によりガザの戦闘が勃発。自治政府大統領のアッバースは非常事態を宣言し、ハニーヤを首相から解任するとともにファイヤードを首相に任命[1]。ファイヤードは緊急内閣を組閣した。国際社会、特に欧米からの信頼は高かった[2][3]ものの、次第にアッバースとの確執が表面化。2013年3月に財務大臣のナビール・カスィースが辞表を提出した際、アッバースは留任を望んだがファイヤードが辞表を受理するなど、アッバースやファタハと対立する場面が多くなった[3][4]。4月13日、ファイヤードは辞表をアッバースに提出し、次期首相が選出され次第退任することとなり[3]、同年6月6日、次期ラーミー・ハムダッラー内閣発足にともない退任となった。
脚注
[編集]- ^ “パレスチナ大統領、ファイヤード財務相に非常事態政府の組閣を任命”. al-Quds al-Arabi. (2007年6月17日) 2007年6月17日閲覧。(東京外国語大学翻訳)
- ^ “パレスチナ:ファイヤド首相が辞任 和平交渉再開へ影響も”. 毎日新聞. (2013年4月15日) 2013年4月15日閲覧。
- ^ a b c “パレスチナ首相が辞任=議長と確執、米和平策に打撃も”. 時事通信. (2013年4月15日) 2013年4月15日閲覧。
- ^ “パレスチナ自治政府、ファイヤド首相が辞任”. 読売新聞. (2013年4月15日) 2013年4月15日閲覧。
外部リンク
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公職 | ||
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先代 イスマーイール・ハニーヤ |
首相 第5代:2007年6月 - 2013年6月 |
次代 ラーミー・ハムダッラー |
先代 ムハンマド・ズフディー・アン=ナシャースィービー オマル・アブドッラッザーク ナビール・カスィース |
財務相 2002年6月 - 2006年3月 2007年3月 - 2012年5月 2013年3月-2013年6月 |
次代 オマル・アブドッラッザーク ナビール・カスィース シュクリー・ビシャーラ |
先代 ズィヤード・アブーアムル |
外務相 2007年3月 - 2009年5月 |
次代 リヤード・アル=マーリキー |