サーマッラー
サーマッラー سامراء | |
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位置 | |
サーマッラーの位置 | |
位置 | |
座標 : 北緯34度11分 東経43度52分 / 北緯34.183度 東経43.867度 | |
行政 | |
国 | イラク |
県 | サラーフッディーン県 |
市 | サーマッラー |
人口 | |
人口 | (現在) |
市域 | 20万人 |
サーマッラー(سامراء Sāmarrāʾ)はサラーフッディーン県に属するイラクの都市。
歴史
[編集]古代
[編集]チグリス川に面しており、メソポタミア文明以来の歴史を持つ。
アッバース朝の首都
[編集]836年、アッバース朝の8代カリフであるムウタスィムは、マムルーク軍団とアッバース朝正規軍の対立を背景として[1]、即位3年ながら都をバグダードからサーマッラーに移した。それから892年までの約50年間サーマッラーはアッバース朝の都であり続け[2]、今日まで残るモスクとしては世界最大であるサーマッラーの大モスクが築かれるなど[3]、一定の繁栄を保った。しかし、東西貿易の幹線道路から外れていたことなどが影響してバグダードを超える都市機能を備えるまでには至らなかった[2]。
近代
[編集]20世紀に入るとサーマッラーの発掘調査が行われるようになり、1911年にはヘルツフェルト (Ernst Herzfeld) 率いるドイツ調査団がサーマッラーの発掘をおこなった[4]。1965年にはイラク考古局のカッサール (Awad al-Kassar) のもとで大モスクやアッバース宮殿、アル=アーシク宮殿の修復が行われた[5]。
20世紀に、チグリス川の氾濫を防ぐダムが建設されると、洪水が減って人口が増加し、現在およそ20万人の人口を擁する[要出典]。
スンナ派が多数を占めているが[要出典]、シーア派の12代イマームであるムハンマド・アルムンタザルを祀る聖地であり[6]、スンナ派のバアス党を率いて一党独裁していたサッダーム・フセイン元大統領がイラク戦争に敗れて失脚すると、両派の間に緊張が引き起こされるようになった[要出典]。
特産品
[編集]サーマッラーは、ラグビーボールを大きくしたようなスイカの名産地として名高い[6]。
世界遺産
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英名 | Samarra Archaeological City | ||
仏名 | Ville archéologique de Samarra | ||
面積 |
15,058ha (緩衝地帯 31,414 ha) | ||
登録区分 | 文化遺産 | ||
文化区分 | 遺跡 | ||
登録基準 | (2), (3), (4) | ||
登録年 |
2007年 (第31回世界遺産委員会) | ||
危機遺産 | 2007年 - | ||
公式サイト | 世界遺産センター | ||
使用方法・表示 |
2007年に「都市遺跡サーマッラー」としてユネスコの世界遺産に登録された。イラクの情勢に鑑みて、登録と同時に「危機にさらされている世界遺産」リストにも加えられた。
主な建造物
- 大モスクと螺旋ミナレット(The Great Mosque and its Spiral Minaret)
- 焼成煉瓦と石膏モルタルで作られた264m×159mの大モスクは、建造された849年~852年ではイスラム世界最大のモスクであった。高さ10.5mの壁面は均等に並んだ半円の塔で補強されており、16の門を有している。モスクは開けた中庭を囲う4つの部分から構成されている。螺旋ミナレット(マルウィヤ・ミナレット、Al-Malwiya)はイスラム世界で最も際立ったものである。四角の基礎は一辺32mあり、5つの円が層となって54mの高さの巨大な螺旋塔を作り上げている。
- アブ・ドゥラフ・モスク(Abu Dulaf Mosque)
- 街の北部に位置し大モスクと似ているもののより小さいアブ・ドゥラフ・モスクは、四方を柱廊玄関(ポルティコ)で囲われた一つの中庭からなっている。モスクの壁面は半円形の塔で補強されている。ミナレットも大モスクと似通っているが、規模は小さい。
- カリフ宮殿(The Caliphal Palace(Qasr ar-Khalipha))
- カリフのアル・ムータシィム・ビラーの命で作られたカリフ宮殿は、大通り沿いのティグリス川を見渡す位置にある。アラブイスラーム世界において最大級の宮殿であり(125ha)、居住区、ホール、施政室、ディワーン、衛兵詰所、休憩所などを含んでいる。後期古代の皇帝宮殿として唯一のもので、初期の配置が完全に残されている。宮殿の発掘は1910年から行われているが、4分の3が未だ埋まったままであり、西側庭園は水没した状態にある。
- アル・フワイシラ宮殿(Al-Huwaysilat Palace)
- バルクワラ宮殿(Balkuwara Palace)
- アル・マシュク宮殿(Al-Ma'shuq Palace)
- バイト・アル・ザハリフ(Bayt al-Zakharif)
- フスン・アル・カディシーヤ(Husn al-Qadisiyya)
- アル・ムシャラハト宮殿(Al-Musharrahat Palace)
- アル・イスタブラト(Al-Istablat)
- テル・アル・アリジ(Tell Al-Alij)
- クバット・アル・スライビーヤ(Qubbat al-Sulaybiyya)
- アル・ジャファリ宮殿(Al-Ja'fari Palace)
登録基準
[編集]この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。
- (2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
- (3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
- (4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 羽田正『モスクが語るイスラム史』中央公論新社〈中公新書〉、1994年。ISBN 4-12-101177-5。
- 佐藤次高『イスラーム世界の興隆』中央公論新社〈中公文庫、世界の歴史 ; 8〉、2008年。ISBN 9784122050792。 NCID BA88092299。
- 中野さやか「M. S. ゴードン著『千の剣の破壊―サーマッラーにおけるトルコ系軍人の歴史(ヒジュラ暦200~275年/西暦815~889年)』」『東洋学報』第85巻第3号、東洋文庫、2003年12月、415-422頁、ISSN 0386-9067、NAID 120006516900。
- 糸賀昌昭「イラクにおける最近の考古活動」『オリエント』第12巻第1-2号、日本オリエント学会、1969年、129-147,177、doi:10.5356/jorient.12.129、ISSN 0030-5219、NAID 130000822347。