コンドゥルチャ川の戦い
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コンドゥルチャ川の戦い | |||||||
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トクタミシュ・ティムール戦争中中 | |||||||
ティムール軍によるキプチャク草原での進軍経路。 (1391年) | |||||||
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衝突した勢力 | |||||||
ティムール帝国 |
ジョチ・ウルス国 アラン人 ナフ人 チェルケス人 ロシア人 | ||||||
指揮官 | |||||||
ティムール ムハンマド・スルタン・ミルザ ウマル・シャイフ・ミルザ1世 ミーラーン・シャー | トクタミシュ | ||||||
戦力 | |||||||
約100000人[1] |
約180000人~200000人 [2] また、240000~300000人という説もある[3] | ||||||
被害者数 | |||||||
不明 | 約100000人 [4] |
コンドゥルチャ川の戦い(コンドゥルチャがわのたたかい)は、トクタミシュ・ティムール戦争の開戦初期に行われた戦闘である[5]。ジョチ・ウルス国とヴォルガ・ブルガール国にまたがるコンドゥルチャ川、現在のロシア・サマラ州である。トクタミシュの騎兵隊はティムール帝国軍を側面から包囲しようとした。しかし、ティムール朝軍はこの攻撃に耐え、その後、突然の正面攻撃により、ジョチ・ウルスと民族の連合軍は逃走した。しかし、連合軍の軍隊の多くはテレク川で止まり、ティムール軍を倒すために体勢を立て直そうとした。
ティムールは以前、1378年にトクタミシュがオルダ・ウルスの王位に就くのを援助していた。その後の数年間、トクタミシュはジョチ・ウルスを完全に支配し、ティムールは中東全域に勢力を拡大した。しかし、ティムールはトクタミシュがジョチ・ウルスの領土だと主張するアゼルバイジャンを占領。これに憤慨したトクタミシュはティムール帝国領に侵入し、サマルカンドを一時包囲したが、ティムールにより奪還。ティムールはトクタミシュを追撃し、トクタミシュはコンドゥルチャ川湖畔で戦いに転じた。
脚注
[編集]出典
[編集]- ^ Tucker, Spencer (English). A Global Chronology of Conflict From the Ancient World to the Modern MiddleEast,VolumeI:ca.3000BCE–1499CE. p. 315
- ^ Hattstein, Markus (Turkish). Islam Sanatı ve Mimarisi, Timurlular. p. 410
- ^ Verdiyev, Muhammed (Turkish). Altın Orda Devleti'nde Nasıreddin Toktamış Han Dönemi (1379-1397). p. 139
- ^ Mirgaleev, ll'nur (Spanish). El peor enemigo de Timur La campaña contra la Horda de Oro;desperta ferro: antigua y medieval. p. 38
- ^ Tucker, Spencer C. (2009-12-23) (英語). A Global Chronology of Conflict: From the Ancient World to the Modern Middle East [6 volumes: From the Ancient World to the Modern Middle East]. ABC-CLIO. ISBN 978-1-85109-672-5
参考文献
[編集]- Tatar Encyclopedia. Kazan: Tatarstan Republic Academy of Sciences Institution of the Tatar Encyclopaedia. 2002. "Кондырча буендагы сугыш".
- Marozzi, Justin (2004). Tamerlane Sword of Islam, Conqueror of the World. HarperCollins. ISBN 0-00-711611-X
- Hookham, Hilda (1962). Tamburlaine the Conqueror. Hodder and Stoughton