ゲッシェ・マイブルク
ゲッシェ・マイブルク(Gesche Meiburg、名はゲスケ(Geßke)、姓はマクデブルク(Magdeburg)とも[1]。1581年[注記 1]-1617年4月30日、ブラウンシュヴァイク)はブラウンシュヴァイクの市民である。 彼女は1615年9月14日[2]の早朝、同市の歴史上、13回目にして最大の攻囲戦[2]となった、ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公フリードリヒ・ウルリヒ率いる軍勢との戦いに他の多くの女性市民とともに[3]参加した。そして攻囲軍と精力的に戦い、同市を陥落から救うほど貢献し、「ブラウンシュヴァイクの英雄的な乙女[2](Braunschweigische Heldenjungfrau)」あるいは「ブラウンシュヴァイクのジャンヌ・ダルク[4]」として著名になり、市の歴史に名を残している[5]。
生涯
[編集]ハーゲンブリュッケ11番地に住んでいた[6]塩水製造業者、ペーター・フォン・マクデブルクの娘については同時代のチラシや賛美詩によって伝わること以外、ほぼ不明である[7]。
1615年夏のブラウンシュヴァイク攻囲戦
[編集]ブラウンシュヴァイク=リューネブルクやブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルの諸公は、中世から近世にかけて何度もブラウンシュヴァイク市を所領に組み込もうとしており、1615年夏の攻撃もそのような試みの一つであった。同市は1615年7月22日から11月2日まで、公の軍に攻囲される。この時、その脅威はそれまでよりも大きいように思われた。なぜならブラウンシュヴァイク市は、所属していたハンザ同盟諸都市からの解囲軍を期待できなかったからである。
9月初頭には、ギーアスベルクやヌスベルクなどの砦から砲撃を受けるようになり、包囲された市民の状況はますます危機的になる。それらは市の中心部よりも標高が高い場所にあったので、敵軍は遮られることなく砲撃ができたのである。こうして市は大損害を被り、多くの住民が殺された。さらに敵軍は数多くの塹壕を通じて、市壁への接近とその破壊、さらに市内への突入を試みた。
9月13日の夜には、市の征服は間近に迫ったように思われた。公の軍は南東の市域、アルテヴィークのマグニ門からブラウンシュヴァイクの防衛施設へ突撃する準備を整える。そのため女性を含むブラウンシュヴァイクの市民全員に対し、防衛への協力が呼びかけられた。そして実際、多くの女性がこの呼びかけに応じ、積極的に戦闘行為に参加するべく自ら武器を手に取ったのである。その中で最も有名なのは、言い伝えに拠れば市壁の上で剣とマスケット銃を手に寄せ手と戦い多くの者を討ち取ったのみならず[8]、共闘する他の女性たちをも自身に倣うよう繰り返し鼓舞し続けた、34歳のマイブルクであった[6]。
攻囲中のフリードリヒ・ウルリヒ公には、下記の報告が届く。
「一人の女性が勇敢に防戦し、市壁の上から投石と剣をもって攻め寄せる我らに大いなる損害を与え、自らに利する胸甲も帯びず全く堂々と市壁に立ち、(ブラウンシュヴァイクの)兵士たちに呼びかけたのです。『安心してただ撃ち続け、勇敢に戦いなさい。私が貴方がたの傍に居る限り、危険はありません』と。准尉の報告に拠ればマスケット銃で500発の弾を彼女に浴びせましたが、全て外れました。あれはペテロか天使に違いありません。」 – Wilhelm Görges, Ferdinand Spehr: 『Vaterländische Geschichten und Denkwürdigkeiten der Vorzeit der Lande Braunschweig und Hannover』、 P. 471、 P. 474。
遂にこの攻囲は失敗し、数日後にはゾルムス=レーデルハイム伯フリードリヒ率いるハンザ=ネーデルラント連合軍が市を解囲するべく来援した[9]。そして1615年10月14日にはブラウンシュヴァイクの包囲を破る。同年11月2日、フリードリヒ・ウルリヒ公は攻囲を断念し、本拠地のヴォルフェンビュッテルに退いた。この紛争はリューベック市長、ハインリヒ・ブロッケス1世の仲裁によって同年12月、最終的に調停された。
チラシ
[編集]ゲッシェ・マイブルクの積極的な戦いへの参加や、何より無私の尽力は、間もなくイラスト化・彩色化された[10]少なくとも4種類のチラシ(ドイツ語ではリューベックとアウクスブルク[7]で印刷された二つの他、ラテン語[11]で印刷された物が一つ)が、一部では詩の形を取る「ブラウンシュヴァイクの英雄的な乙女」の報告を添え、市境を越えて広まるほど非凡なことであった。例えばこの事件からたった一日後の9月15日、近くのヴォルフェンビュッテル市で発行された『真実の新しい新聞』(Wahrhaftige Newe Zeitung)は彼女の恐れを知らない様子や、超自然的で痛快な不死身さを報じている。
あるチラシにはラテン語で6行、次のように記述されている。
Corpore sum Virgo, fateor: sed Pectore Vir sum
Me videre virum, quos necui ipsa, Viri.
Brunsuigum vitam dedit hanc mihi Patria: vitam
Pro Patria multis eripui ipsa viris.
Vita euanescet, mea Fama, heroica Fama,
Quam mihi Mars peperit, non ruitura manet.
身体的には、認めるが、私は乙女である。しかし心の中では、男である。
私が自らの手で殺した男たちは、私を男と見なした。
故郷のブラウンシュヴァイクがこの命を私に授けた。命を
故郷、ブラウンシュヴァイクのために私は多くの男から自分で奪った。
この命は消え去るが、私の栄光、英雄としての栄誉――
マルスが私に与えたそれは朽ちることなく残るであろう。[12]
翌年、1616年には報告書、『ブラウンシュヴァイクの戦争行為』が上梓されており、このような記述が見られる。
「市壁の上では34歳とされる未婚の女性、ゲスケ・マクデブルクも剣、戦槌とマスケット銃で武装し、騎士らしく持ちこたえ、多くの兵士を傷つけ、命を奪った。これに応じて何発もの銃弾が撃ち込まれたものの、彼女は傷を負わなかった。 – Dieter Lent, Rudolf Meyer:『 Meiburg (auch Magdeburg, Meideborges), Gesche (auch Geßke)』 P. 488。
ゲッシェ・マイブルクの名は「永久に歴史に残ることとなった[13]」。アウクスブルクの製本職人、ダニエル・デーリンクが印刷したチラシには敵軍と戦う彼女の姿、並びに初行と末行を伴う長い詩が掲載されている。
Ich Gesche Meiburg so genandt, / In der Statt Braunschweig wol bekandt / … / Ich solche Thaten hab gethan / Die einem Helden wohl anstahn / … / Das man noch wird in manchen Tagen, / Von Braunschweigischen Weibern sagen.
ゲッシェ・マイブルクと呼ばれた私は、 / ブラウンシュヴァイクの町でよく知られていた。 / (中略) / 私は業績を残したという。 / 一人の英雄に相応しいことを。 / (中略) / 人々がなお幾日にもわたって / ブラウンシュヴァイクの女性たちを物語るほどに。
– Wilhelm Görges, Ferdinand Spehr: 『Ein braunschweigische Heldenjungfrau』、 P. 474。
参考文献
[編集]- Gabriele Armenat (Hrsg.): Frauen aus Braunschweig. Stadtbibliothek, Braunschweig 1991, P. 16–18.
- ヴィルヘルム・ゲルゲス、フェルディナント・シュペーア: Eine braunschweigische Heldenjungfrau.、 Vaterländische Geschichten und Denkwürdigkeiten der Vorzeit der Lande Braunschweig und Hannover. 第1巻、第2版所収。F. Wagner, Braunschweig 1885, P. 469–475. (再版: Mohnkopf Reprints, München 1979, ISBN 3-8128-0014-4.)
- ディーター・レント、 Rudolf Meyer: Meiburg (auch Magdeburg, Meideborges), Gesche (auch Geßke).、P.488-489。
- Norman-Mathias Pingel: Meiburg (Magdeburg), Gesche., P.92。
- Karlwalther Rohmann: Begegnungen in Braunschweigs Mauern. H. Oeding, Braunschweig 1979, ISBN 3-87597-001-2.
- ヴェルナー・シュピース:『中世以降のブラウンシュヴァイク市の歴史』、 第1巻、 Waisenhaus-Buchdruckerei, Braunschweig 1966, P.176。
脚注
[編集]- ^ フィリップ・ユリウス・レートマイヤー: ヘンリクス・ビュンティンク / ヨハン・レッツナー著、『ブラウンシュヴァイク=リューネブルク年代記』もしくは『ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公の歴史について』第2部: In sich haltend Das Mittle Haus Braunschweig-Lüneburg.、 Detleffsen、 ブラウンシュヴァイク、 1722年、 P. 1228.
- ^ a b c Wilhelm Görges, Ferdinand Spehr: Eine braunschweigische Heldenjungfrau. P. 470.
- ^ Norman-Mathias Pingel: Meiburg (Magdeburg), Gesche. P.92.
- ^ Karlwalther Rohmann: Gesche Meiburg, die Braunschweiger Jeanne d’Arc. In: Begegnungen in Braunschweigs Mauern. ブラウンシュヴァイク、1979年、 P. 322–325.
- ^ Werner Spieß: Geschichte der Stadt Braunschweig im Nachmittelalter. 第1巻、 P. 176.
- ^ a b Gabriele Armenat (Hrsg.): Frauen aus Braunschweig. ブラウンシュヴァイク 1991年、 P. 18.
- ^ a b Dieter Lent, Rudolf Meyer: Meiburg (auch Magdeburg, Meideborges), Gesche (auch Geßke). P. 488.
- ^ Garzmann, Schuegraf, Pingel: Braunschweiger Stadtlexikon. 増補版。 Braunschweig 1996, P. 92.
- ^ Allgemeine Deutsche Biograhie: (1574-1649)に拠れば騎兵8個部隊および8個歩兵部隊(acht Standarten Berittene und weitere acht Fähnlein Fußtruppen)、即ち傭兵およそ2,400名であった。
- ^ Walter Hinz: Braunschweigs Kampf um die Stadtfreiheit 1492–1671. Repertorien zur Erforschung der frühen Neuzeit. Jacobi Verlag, 1977, ISBN 978-3-447-04907-8.
- ^ Dieter Lent, Rudolf Meyer: Meiburg (auch Magdeburg, Meideborges), Gesche (auch Geßke). P. 489。
- ^ ヴォルフェンビュッテル市、アウグスト公立図書館に収蔵されているこのチラシに関する情報。
- ^ Werner Spiess: Braunschweig im Nachmittelalter. Braunschweig 1966, P. 176.
注記
[編集]- ^ ブラウンシュヴァイクの防戦に参加した時、彼女は34歳であった (Rehtmeyerその他を参照)。
外部リンク
[編集]- ウィキメディア・コモンズには、ゲッシェ・マイブルクに関するカテゴリがあります。