グロ・ハーレム・ブルントラント
グロ・ハーレム・ブルントラント Gro Harlem Brundtland | |
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グロ・ハーレム・ブルントラント(2007年撮影) | |
生年月日 | 1939年4月20日(85歳) |
出生地 | ノルウェー、バールム |
出身校 |
オスロ大学 ハーバード大学 |
所属政党 | ノルウェー労働党 |
配偶者 | アルネ・オーラヴ・ブルントラント |
サイン | |
在任期間 |
1981年2月4日 - 1981年10月14日 1986年5月9日 - 1989年10月16日 1990年11月3日 - 1996年10月25日 |
元首 |
オーラヴ5世 ハーラル5世 |
第5代 世界保健機関事務総長 | |
在任期間 | 1998年5月13日 - 2003年7月21日 |
グロ・ハーレム・ブルントラント(ノルウェー語: Gro Harlem Brundtland, 1939年4月20日 - )は、ノルウェー・バールム生まれの医師(小児科医)、政治家。世界保健機関(WHO)事務局長、同名誉事務局長、ノルウェー首相を歴任。ノルウェー労働党党員。
経歴
[編集]1963年オスロ大学を卒業[1]。1964年ハーバード大学へ留学。帰国後、医師を務める傍ら、労働党でも活躍。1974年、ブラッテリ内閣の環境相に就任。1977年9月、総選挙に立候補し初当選。1981年2月、女性として初めてノルウェー首相に就任する。これは欧州では英国のマーガレット・サッチャー首相に次ぐ2人目の女性首相であった[1]。同年10月、総選挙で保守党に敗れ、退任。
1984年から1987年まで、国際連合に設置された「環境と開発に関する世界委員会」(World Commission on Environment and Development, WCED)は、彼女が委員長を務めたことからブルントラント委員会と呼ばれる。この委員会がまとめた報告書「地球の未来を守るために(Our Common Future)」には、「将来世代のニーズを損なうことなく現在の世代のニーズを満たすこと」という「持続可能な開発」の概念が打ち出されている[1]。
1986年、総選挙での労働党勝利をうけて、首相に返り咲く。1988年にはインディラ・ガンディー賞を受賞。1989年、総選挙で敗北し退陣。その後、保守内閣の分裂から1990年10月、第三次ブルントラント少数内閣発足。1992年1月には、ノルウェー首相として初めて日本に公式実務訪問した。1992年11月、三男の自殺を機に労働党党首を辞任。1994年にはカール大帝賞を受賞。1996年10月、首相を辞任。
1998年4月、世界保健機関(WHO)の事務局長に就任。就任演説で『タバコは人殺しである。』との持論を展開し、痛烈な喫煙批判を行い、禁煙政策である『たばこの規制に関する世界保健機関枠組条約』作成と締結を主導した。
2004年には、旭硝子財団よりブループラネット賞が贈られた。2005年アルバート・メダル、2014年唐奨受賞。
2011年のノルウェー連続テロ事件では、ウトヤ島での政治集会に参加していたブルントラントを殺害する計画があったが、事件発生時はすでに島を後にしていた[2]。
人物
[編集]2003年3月[要出典]、電磁波過敏症であることを公表[3]。
父グドゥムン・ハーレムはノルウェー労働党創成期の大政治家[1]。妹のハンネ・ハーレムは第1次ストルテンベルグ内閣の法相。
日本語訳著書
[編集]- 『世界で仕事をするということ』竹田ヨハネセン裕子訳. PHP研究所 2004
脚注
[編集]- ^ a b c d 「グロ・ハルレム ブルントラント」『現代外国人名録2016』 。コトバンクより2023年8月16日閲覧。
- ^ “銃乱射事件容疑者、元首相の殺害を計画 ノルウェー”. 日本経済新聞. 共同通信. (2011年7月25日). オリジナルの2023年8月16日時点におけるアーカイブ。 2023年8月16日閲覧。
- ^ “Mobile fears of world health leader”. BBC NEWS. (2002年7月2日). オリジナルの2023年8月16日時点におけるアーカイブ。 2023年8月16日閲覧。
関連項目
[編集]公職 | ||
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先代 中嶋宏 |
世界保健機関事務総長 第5代:1998 - 2003 |
次代 李鍾郁 |
先代 オドヴァル・ノルドリ カレ・ウィロック ヤン・ペーター・シセ |
ノルウェー王国首相 1981 1986 - 1989 1990 - 1996 |
次代 カレ・ウィロック ヤン・ペーター・シセ トルビョーン・ヤクラント |