コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

グレートタイタン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
グレートタイタン
品種 サラブレッド
性別
毛色 鹿毛
生誕 1975年4月2日
死没 1981年4月26日(7歳没・旧表記)
シンザン
リレントデーター
母の父 カウントオブオナー
生国 日本の旗 日本北海道新冠町
生産者 松本和夫
馬主 長底定治郎
調教師 吉田三郎栗東
競走成績
生涯成績 35戦10勝
獲得賞金 2億617万3800円
テンプレートを表示

グレートタイタンは、日本競走馬京都記念阪神大賞典スポーツニッポン賞金杯愛知杯などを勝った。

概要

[編集]

1977年12月11日阪神競馬場の新馬戦で吉田勝也騎乗でデビューし11着、1978年1月28日の4戦目・未出走未勝利戦で初勝利を挙げた。平場300万下条件戦、山吹賞を連勝し、4歳オープン馬となるが、オープンクラスでは3着、3着、2着と勝ちきれない競馬が続いた。秋には1100万下条件の格付となり、清水特別で勝利を挙げて菊花賞に出走するが12着に敗れた。

1979年夏、5歳初戦のジューンステークスを人気薄ながら勝利したものの、続く小倉中京での3戦は勝てず、11月4日京都記念(秋)(この年は阪神競馬場での開催)に出走した。稲葉的海(現・調教助手。道路に逃げてきたノボリハウツーを捕獲した人物)を鞍上に迎え、52キログラムの軽ハンデもあり2分26秒5のレコード勝ちして初重賞制覇となった。その後は京阪杯2着を経て、武邦彦を鞍上にして愛知杯スポーツニッポン賞金杯を連勝した。しかし、続く中日新聞杯サンケイ大阪杯は1番人気に支持されたものの敗退、オープンレースを挟んで出走した天皇賞(春)は14着に敗れた。秋になっても朝日チャレンジカップ京都大賞典と連敗した。

1980年11月2日田原成貴との初コンビとなった京都記念(秋)では最後方から一気に追い込み同レースを連覇した。天皇賞(秋)は敗れたものの、プリテイキャストの大逃げが決まる中、最後方から追い込んで5着に入った。年末の阪神大賞典(この年は京都競馬場での開催)では、タカノカチドキやオーバーレインボーを最後方から追い込み差しきって勝利した。

1981年日経新春杯マイラーズカップ、サンケイ大阪杯と3連敗した後、天皇賞(春)の直前追い切り中に倒れ、心臓麻痺でそのまま死亡した(この模様を取材で来ていたデイリースポーツのカメラマンが偶然撮影しており、第5回関西写真記者協会賞を受賞した)。

田原成貴はこの馬を「天まで突き進みそう」、「空気を裂く馬」と表現していた。

血統表

[編集]
グレートタイタン血統ボワルセル系 / Plucky Liege4×5=9.38%、Gainsborough5×5=6.25%) (血統表の出典)

シンザン
1961 鹿毛
父の父
*ヒンドスタン
Hindostan
1946 黒鹿毛
Bois Roussel Vatout
Plucky Liege
Sonibai Solario
Udaipur
父の母
ハヤノボリ
1949 栗毛
ハヤタケ *セフト
飛竜
第五バツカナムビユーチー *トウルヌソル
バツカナムビユーチー

リレントデーター
1965 黒鹿毛
Count of Honor
1953 黒鹿毛
Count Fleet Reigh Count
Quickly
Honor Bound Bull Dog
Anchors Ahead
母の母
*リレントレス
Relentless
1959 黒鹿毛
Determime Alibhai
Koubis
Flor y Flor Gulf Stream
Fineza F-No.3-o


参考文献

[編集]
  • 神戸新聞社史編纂委員会「デイリースポーツ四十年史」『神戸新聞社九十年史』神戸新聞社、1988年

外部リンク

[編集]