ギヤースッディーン・ムハンマド
ギヤースッディーン・ムハンマド غياث الدين محمد | |
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ゴール朝第6代君主 | |
在位 | 1157年 - 1202年 |
出生 |
1139年 |
死去 |
1202年 ヘラート |
王朝 | ゴール朝 |
宗教 | イスラム教スンナ派 |
ギヤースッディーン・ムハンマド(ペルシア語: غياث الدين محمد Ghiyāth al-Dīn Muhammad, 1139年 - 1202年)は、現在のアフガニスタン西部に興ったイスラム王朝、ゴール朝の君主(在位:1157年 - 1202年)。彼の治世にゴール朝はイラン東部のホラーサーン地方から北インドに至る広大な領域を支配する国家となった。
生涯
[編集]ギヤースッディーンは、ゴール朝をガズナ朝から最終的に自立させ、ガズナを攻略したアラーウッディーンの甥にあたる。1161年にアラーウッディーンが死んだ後、1163年にサイフッディーンを殺害して自らゴール朝の君主となった。
1173年にはアラーウッディーンがセルジューク朝の虜囚となってゴール朝が衰退した間に失われていたガズナを再征服し、同地の支配を弟のシハーブッディーン・ムハンマド(ムハンマド・ゴーリー)に委ねた。以後、シハーブッディーンは南下してラホールにいたガズナ朝の残存勢力を滅ぼし、さらに北インドへと侵攻してインドにおけるムスリム(イスラム教徒)安定政権の端緒を築いた。
一方、王朝発祥の地ゴール地方を根拠地としたギヤースッディーンはセルジューク朝のスルターン・サンジャルの没落後、混乱の続いていたイラン・中央アジアに進出し、1175年にはホラーサーン地方東部の大都市ヘラートを併合した。ギヤースッディーンはヘラートを新しい拠点と定めて積極的な勢力拡大に乗り出し、アッバース朝と手を結んでカラキタイ(西遼)やホラズム・シャー朝に対しても攻勢をかけた。1190年にはホラズム・シャーのアラーウッディーン・テキシュ率いる大軍を破ってテキシュを捕虜とし、1198年にはカラキタイの侵入を破って、現存するヘラートの金曜モスクを建造した1200年までにホラーサーン地方の大部分を支配下に置くことに成功した。
死後
[編集]ギヤースッディーンは1202年に病死し、息子ギヤースッディーン・マフムードにかわって弟のシハーブッディーンがホラーサーンに移ってゴール朝を継いだが、1206年に死亡する。その後はギヤースッディーン・マフムードが王位を継いだ(1206年 - 1210年)ものの、支配下の諸勢力の争いから後継者を巡る混乱が起こり、ギヤースッディーンが一代で打ち立てた帝国は急速に崩壊していった。
関連項目
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