カレン・カーペンター
カレン・カーペンター Karen Anne Carpenter | |
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1972年8月、ホワイトハウスにて | |
基本情報 | |
出生名 | カレン・アン・カーペンター |
生誕 | 1950年3月2日 |
出身地 |
アメリカ合衆国 コネチカット州ニューヘイヴン |
死没 | 1983年2月4日(32歳没) |
ジャンル | ポップ |
職業 | 歌手 |
担当楽器 | ボーカル、ドラムス |
共同作業者 | リチャード・カーペンター |
著名使用楽器 | |
ラディック |
カレン・アン・カーペンター(Karen Anne Carpenter、1950年3月2日 - 1983年2月4日)は、カーペンターズのヴォーカリスト、ドラマー。声種はアルトで、3オクターブの声域を持っていた。彼女の声の美しさは、ビートルズのジョン・レノンやポール・マッカートニーをはじめとした一流アーティストたちも絶賛している。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第94位[1]。「雑誌Qの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第48位[2]。
生涯
[編集]生い立ち - カーペンターズ結成
[編集]アメリカ合衆国コネチカット州のニューヘイヴンに生まれる。家族は1963年にロサンゼルス郊外へ転居した。その頃、兄のリチャードが近所の公園のコンサートでピアノを弾いていた際、兄に促されてスキータ・デイヴィスのヒット曲「この世の果てまで」を歌った。これが、兄妹一緒に人前で行った初めての演奏となる[3]。ただし、13歳の頃は、将来は看護師か画家になるのが夢だったという[3]。
兄と同じダウニー高校では、マーチングバンド部に所属。兄のリチャードが音楽で才能を開花させていた影響を受けて、10代半ばになると、好きだったビートルズのリンゴ・スターやジャズ・ドラマーのジョー・モレロが使用していたラディックのドラムスを親にねだる。しかし以前にサックスやフルートを挫折していたので、両親や兄リチャードは続くかどうか半信半疑だったという。しかしカレンはドラムに没頭し、練習を繰り返したという。その甲斐あってカレンのドラムスの腕前は瞬く間に上達し、民族音楽によく見られる変拍子もこなすようになった。一方、本格的にボーカルのトレーニングを受けに行くと、トレーナーから「あなたには、何も教えるものはない」と言われるなど、彼女には歌手としての天性の素質もあった。
こうしてカレンは兄や友人たちと結成したバンド「スペクトラム」から、ドラムスとボーカルを担当することとなった。しかし、カーペンターズとしての活動が活発になるにつれ、歌手として前面に立つことが多くなっていく。やがてリチャードの意向を受けてヴォーカル専門に活動するようになった(カレンがタムの多いドラムスを好んで使っており、観客席から見えにくいというのも一因であった)。カーペンターズはカリフォルニア州を中心として、やがて世界的に活動するようになった。
摂食障害
[編集]子供が大好きで、彼女自身も子供のような無邪気さと純粋さを持ち周囲の人から好かれていた。一方で自らの体形については太りすぎという固定観念を持っており、やがて精神的な病となっていった。事実、その頃のカレンは平均的な女性と比較してぽっちゃりしていた。カレンの身長は163センチで適正体重は58.45キロだが、彼女の体重は最大66キロに達していた[4]。カレンは「絶対に痩せてやる」と発奮しダイエットに励むようになったが、それが彼女の寿命を縮める結果となった。1975年9月のカレンの体重は41キロであった[5]。
1974年、3度目の来日時に、リチャードとともに和服姿の写真を撮影、翌年発売されたライブアルバム「CARPENTERS LIVE IN JAPAN」 に付録としてその写真が添付されたが、カレンによると、この頃が最も太っていたという[注 1]。
カレンはいつの頃からか摂食障害(拒食症)に悩まされるようになる。これは後のセラピーの過程で親子関係が背景にあると見られている。このため、1975年に予定されていた日本公演が中止となった。当時の招聘先である、キョードーのコメントは「神経性食意不振症」によるものとしていた。
リチャードが睡眠薬依存症のリハビリを行っていた1980年にソロ活動を行うが、この時期の音源が公開されるのは、カレンの死後となる(体が弱っていたことや、成熟味を持ちすぎている[注 2]という意見から当時は兄や会社側から反対され、最終的にカレン自身が発表を断念した[注 3])。アルバムは『遠い初恋』(原題:「カレン・カーペンター」)として1996年にリリースされた[注 4]。
結婚生活の破綻 - 死去
[編集]1980年、若手実業家のトム・バリスと結婚をするも、翌年暮れには破綻。離婚同意書にサインする直前(約束の6時間ほど前)に彼女が死去したため、現在も既婚のままとなっている。
1983年2月4日早朝、両親の家で意識不明になっているところを発見され、同日死去した。満32歳没。死因は急性心不全。長期の闘病生活が心臓に負担をかけていたと思われる。なお、映画『カレン・カーペンター・ストーリー』によれば、晩年は過食症と拒食症の症状が繰り返し起こっており、死去前日は食欲が少し出てきたところで翌日亡くなったことになっている。彼女の死は社会に大きな衝撃を与え、拒食症などの摂食障害が社会的に認知されるきっかけとなった。
カレンの遺体はカリフォルニア州オレンジ郡のForest Lawn-Cypressに埋葬されていたが、2003年末に兄リチャードの自宅に近いロサンゼルス郡のヴァレー・オークス・メモリアルパークに改葬された。
評価
[編集]活動初期は「歌手専任」としてよりも「歌うドラマー」としての活動が多く、ドラマーとしての評価も高いものが多い。「『Yesterday Once More』の収録時、リチャードが前半部分だけを録り直したいという要求をカレンに出した。当時、部分的な録り直しは録音テープの切り貼りでしか実現することができず、とりわけ前半を録り直す場合、正確な演奏時間を再現して後半に結びつけるリズムキープ力が必要であり、無謀と思われた。しかし、カレンの正確なクリックによって、前半の演奏時間および後半に結び付けても揺れのないリズムが再現され、録り直しに成功した。しかも「今聴いてもどこに繋ぎ目があるのか、繋いだ本人すら判らない」というエピソードがあるほど、リズムキープ力に対する評価が高い[7]。
カレンがドラムを担当した曲は以下のとおりである[8]。ドラマーとしてクレジットされている曲もあるが、カーペンターズ初期の曲にはそうでないものもあり、以下は両者を含めたものである。
TICKET TO RIDE
[編集]- 2. YOUR WONDERFUL PARADE
- 3. SOMEDAY
- 4. GET TOGETHER
- 5. ALL OF MY LIFE
- 6. TURN AWAY
- 7. TICKET TO RIDE
- 8. DON'T BE AFRAID
- 9. WHAT'S THE USE
- 10. ALL I CAN DO
- 11. EVE
- 12. NOWADAYS CLANCY CAN'T EVEN SING
CLOSE TO YOU
[編集]- 2. LOVE IS SURRENDER
- 3. I'LL NEVER FALL IN LOVE AGAIN
- 10. MR.GUDER
- 12. ANOTHER SONG
CARPENTERS
[編集]- 9. BACHARACH/DAVID MEDLEY
A SONG FOR YOU
[編集]- 8. FLAT BAROQUE
NOW & THEN
[編集]- 1. Sing
- 2. The Masquerade
- 3. Heather
- 5. I Can't Make Music
- 6. Yesterday Once More
- 7. Fun, Fun, Fun
- 8. The End Of The World
- 9. Da Doo Ron Ron (When He Walked Me Home)
- 10. Deadman's Curve
- 11. Johnny Angel
- 12. The Night Has A Thousand Eyes
- 13. Our Day Will Come
- 14. One Fine Day
- 15. Yesterday Once More (Reprise)
HORIZON
[編集]- 4. PLEASE MR. POSTMAN
- 9. LOVE ME FOR WHAT I AM
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 2009年発売の紙ジャケットSHM-CD版にミニチュア判の写真が封入されている。
- ^ 歌い方が成熟しているという意味ではなく数曲の歌詞の内容がカーペンターズのものに比べて大人び過ぎているという意味。
- ^ カレンはこのアルバムの制作に際し単身ニューヨークに渡り、超一流のスタッフたちを使い、予算オーバー分は数千万円の私費も投じて79年5月から当初の予定の倍の約1年を掛けて完成させた。力を注ぎ込んでいただけに悩みぬいた末の発売中止だった。中止の理由について、当時は「(カーペンターズの活動が優先なので)ソロはどうでも良かった」と発言していたが、実際はお蔵入りになったことにとまどい、消え入りそうな様子だった。リチャードは「心情的には出させてあげたかったよ。あれだけ一生懸命やったんだし」と発言している。
- ^ 1995年のテレビドラマ『未成年』(野島伸司脚本)の主題歌・挿入歌・エンディングテーマ曲にカーペンターズの曲が使われたことから日本でカーペンターズを知らない若い世代を中心に再び大ブームが起き、日本のレコード会社にカーペンターズの新譜やツアーの問い合わせが相次いだことを知ったA&Mレーベルが、新旧のファンのためにリリースを決めた[6]。
出典
[編集]- ^ Rolling Stone. “100 Greatest Singers: Karen Carpenter”. 2013年5月26日閲覧。
- ^ “Rocklist.net...Q Magazine Lists..”. Q - 100 Greatest Singers (2007年4月). 2013年5月21日閲覧。
- ^ a b 『文藝別冊[総特集]カーペンターズ』河出書房新社、2003年、ISBN 4-309-97652-2、83頁。
- ^ Schmidt, Randy (2010). Little Girl Blue: The Life of Karen Carpenter pp. 63–64. ISBN 978-1-556-52976-4.
- ^ Schmidt, Randy (2010). Little Girl Blue: The Life of Karen Carpenter p. 127. ISBN 978-1-556-52976-4.
- ^ ライナーノーツの小倉ゆう子の解説。
- ^ 『リズム&ドラム・マガジン』2008年2月号、18頁。
- ^ 『リズム&ドラム・マガジン』2008年2月号、19頁。
参考文献
[編集]- リズム&ドラム・マガジン 2号連続特集(ドラマー、カレン・カーペンターの真実/ドラマー、カレン・カーペンターが残したもの)
- リズム&ドラム・マガジン 2008年2月号. リットーミュージック. (2008年). ASIN B0011ETPAU
- リズム&ドラム・マガジン 2008年3月号. リットーミュージック. (2008年). ASIN B00139PQ9M