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カフジ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

座標: 北緯28度26分25秒 東経48度29分04秒 / 北緯28.440318度 東経48.484383度 / 28.440318; 48.484383

カフジの街並み
カフジの位置

カフジアラビア語: الخفجي‎)は、クウェートサウジアラビア国境地帯に存在する都市である。

歴史

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現在のクウェートはサバーハ家出身の首長によって統治される国であるが、古くはサバーハ家はナジュド地方出身の商人で、17世紀後半に旱魃のため海岸へ移住してきた。当初彼らは現在のカタール西部、ズバラ付近に到着したが、そこも水が不十分で良い土地ではなかったためさらに北上し、そこでたどり着いたのがクウェートである。その頃には18世紀の前半になっており、商人たちはクウェートに砦を作って住むようになった。その砦でサバーハ家は商人たちに選ばれて首長となったのである。

当時のクウェートはオスマン帝国の領土の最南端に位置する寒村であったが、商人たちは貿易行ってクウェートを発展させ、サバーハ家はオスマン帝国の総督からクウェートの支配者として認められるようになった。その後オスマン帝国は領土を南へ拡大させ、アラビア半島ペルシア湾湾岸地域を支配しようと試み、1871年にはクウェートからカタールにかけてのアハサー地域に出兵させた。その時クウェートもオスマン帝国軍に協力して出兵した事でアハサー地域の総督となった。ただし当時のアハサー地域はほかの地域同様要所に帝国軍が駐屯している程度で、他は各地の部族や商人たちが割拠している状態であったため、実際にはクウェートに支配はほとんど及んでいなかったという。

この頃になると、中東地域にはイギリス帝国が進出してくるようになる。当時植民地にしていたインドへの安全な航路を確保したいイギリスは、1892年休戦オマーン(現在のアラブ首長国連邦)の首長たちと条約を結んで保護国化し、同じ頃オスマン帝国から現在のイラクに至るバグダード鉄道を建設していたドイツ帝国に対抗すべく同鉄道の終点に近いクウェートに進出。その頃クウェートはオスマン帝国の支配から脱しようとしていたためイギリスと条約を結び保護国となった。

このような経緯により、クウェートはイギリスの保護国となり、その一方でサバーハ家はオスマン帝国によって総督に任命されるという複雑な状況となった。そのためイギリスは1913年にオスマン帝国と条約を結び、サバーハ家の支配地域を確定する事となる。その結果クウェート市の半径80km以内をクウェートの領土とし、更にそこから南へ100kmのアハサー地域の北部までがクウェート領とする事となったのである。

その後、第一次世界大戦が勃発。オスマン帝国はドイツと同盟を組んでイギリスなどと戦ったため、イギリスは中東からオスマン勢力を一掃すべく、当時アラビア半島の大半を領有していたヒジャーズ王国を支援する事でそれらの地域を独立させた。その結果イラクはイギリスの委任統治領となり、保護国のクウェートはオスマン帝国から正式に独立。更にクウェートを通してアハサー地域をも支配しようとした。しかしその頃アハサー地域では新興勢力のサウード家ナジュド及びハッサ王国(現在のサウジアラビア)を建国していた。

その後もナジュド及びハッサ王国はアラビア半島を征服し続け、アハサー地域を支配すべく1920年にはベドウィン部隊をクウェートに侵攻させ、首都から約40kmの地点までを占領。その時はイギリス軍が出動したためナジュド・ハッサ軍は撤退したが、その後の1922年12月に結ばれたオカイル議定書でクウェートはアハサー地域の領有権を正式に放棄して従来の支配地域の3分の2を失い、更に南側の領土は首都から40kmまでの範囲に削られ、そこから南側の5180平方kmは中立地帯となった

当時クウェートはイギリスの保護国であったため、オカイル議定書を実質的にまとめたのはイギリスである。これはクウェートにとっては屈辱的な内容だが、イギリスとしては第一次世界大戦で共闘し、アラビア半島の新たな大国となったナジュド・ハッサ王国に配慮した判断であったのである。その代わりイギリスは翌1923年、1913年の条約で決められながらもクウェートの支配が及んでいなかった北部の湿地帯58km分を正式にクウェート領とした。しかしこれによってイラク王国は海への出口をほとんど失ってしまったためイラク国王ファイサル1世はイギリスに抗議したが、当時はイラクもイギリスの委任統治領であったため抵抗する事はできず、クウェートとイラクの国境は1927年に再確認される事になる。イギリスとしては間もなく1932年に独立することが決定していたイラクに海岸線を与えるより、保護国としてこの先も長く支配することができるクウェートによって海岸線を確保しておきたかったのである。かくしてクウェートはイギリスの政治的判断によって南側の領土を失い、また北側の領土を得ることができたのである。

南側に成立したクウェートとナジュドの中立地帯は、土地を両国で分割せず双方が平等に半々の権利を持つというもので、中立地帯には軍事基地を設けず、双方の遊牧民は自由に出入りできるとされた。当時は石油も発見されておらず、定住者も存在せず、しばしば遊牧民がやって来る程度であったため、両国とも中立地帯は事実上放置していたのであった。ところが1953年アメリカ合衆国の石油会社がワフラ油田を開発し、1959年には日本の石油会社アラビア石油カフジ油田を開発すると、各国の技術者や外国人労働者がやってきて無人の沙漠であった中立地帯の人口は、約2万人に達した。

中立地帯で採掘された石油の利益は両国で半々に分割された。その一方法律も両国の者が適用され、中立地帯で犯罪を行った場合にはクウェートの警察に発見されればクウェートの法律で裁かれ、サウジアラビアの警察に発見されればサウジアラビアの法律で裁かれるという仕組みであった。しかしそれでは弊害が大きいため、1965年に中立地帯は南北に分割され、それぞれ両国に併合される事が決定し1970年から実行に移された。ただし石油など天然資源の利益は従来通り両国で平等に分割し、両国の国民は旧中立地帯内には自由に立ち入れるとした。その後2000年には石油などの利益についても両国で境界線を定めて分割されることとなった[1]

湾岸戦争

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カフジの戦闘の戦闘配置図

1990年イラククウェート侵攻をきっかけとして1991年に勃発した湾岸戦争ではイラク軍がカフジにも侵攻し、カフジの戦いとなった。当時カフジにいた多国籍軍は当初敗れ、一時的にイラクに占領されたが、その後アメリカ海兵隊に援助されたサウジアラビア軍カタール軍戦車部隊がイラク軍と戦いカフジは奪還された[2]

脚注

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  1. ^ 中立地帯”. 世界飛び地領土研究会 (2013年7月20日). 2022年12月23日閲覧。
  2. ^ 第6章 アメリカ軍以外から見た湾岸戦争”. 防衛研究所 (2021年3月). 2022年12月23日閲覧。