コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

カタリーナ・フォン・エスターライヒ (1420-1493)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
カタリーナ・フォン・エスターライヒ
Katharina von Österreich

出生 1420/4年
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
オーストリアの旗 オーストリア大公国ウィーナー・ノイシュタット
死去 1493年9月11日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
バーデン辺境伯領バーデン=バーデンホーエンバーデン城ドイツ語版
埋葬 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
バーデン辺境伯領バーデン=バーデン
配偶者 バーデン辺境伯カール1世
子女 カタリーナ
ツィンブルガ
マルガレータ
クリストフ1世
アルブレヒト
フリードリヒ
家名 ハプスブルク家
父親 オーストリア公エルンスト
母親 ツィンバルカ・マゾヴィエツカ
テンプレートを表示

カタリーナ・フォン・エスターライヒ(ドイツ語:Katharina von Österreich, 1420/4年 - 1493年9月11日)は、バーデン辺境伯カール1世の妃。

生涯

[編集]

カタリーナはオーストリア公エルンストツィンバルカ・マゾヴィエツカの娘である。長兄フリードリヒ3世1452年神聖ローマ皇帝となった。カタリーナは兄フリードリヒ3世やアルブレヒト6世とともにウィーナー・ノイシュタットで育った[1]

1447年7月15日プフォルツハイムバーデン辺境伯カール1世と結婚し、カール1世に持参金として3万ドゥカートをもたらした[2]。カタリーナは自分が高位であることを示すため、自らの紋章として、バーデンの紋章の横にオーストリアの紋章を加えた[3]。結婚後、カール1世はオーストリア=チロル大公ジークムントにより前方オーストリアの知事に任ぜられた。この時、カール1世はジークムントの顧問官マテウス・フンメルと知りあった[4]

18年間の穏やかな結婚生活の後、1475年に夫カール1世は死去した。息子クリストフ1世は、寡婦となったカタリーナの住まいとしてホーエンバーデン城ドイツ語版を譲り渡し、自身は新たにバーデン=バーデン新城ドイツ語版を建設した。

カタリーナは1493年に死去し、バーデン=バーデンに埋葬された。

子女

[編集]
  • カタリーナ(1449年 - 1484年) - 1464年、ヴェルデンベルク=ザルガンス伯ゲオルク3世と結婚
  • ツィンブルガ(1450年 - 1501年) - 1468年、ナッサウ伯エンゲルベルト2世と結婚
  • マルガレータ(1452年 - 1495年) - リヒテンタール女子修道院長
  • クリストフ1世(1453年 - 1527年) - バーデン辺境伯
  • アルブレヒト(1456年 - 1488年) - バーデン辺境伯
  • フリードリヒ(1458年 - 1517年) - ユトレヒト司教

脚注

[編集]
  1. ^ Ferdinand Carl Böheim: Chronik von Wiener-Neustadt, self-published, 1863, p. 99
  2. ^ Christoph Friedrich von Stälin: Wirtembergische Geschichte, J. G. Cotta'scher Verlag, 1856, p. 725
  3. ^ Alterthums-Verein zu Wien: Berichte und Mittheilungen des Alterthums-Vereines zu Wien, vol. 2, Buchhandlung Prandel und Meyer, 1857, p. 143
  4. ^ Sönke Lorenz (ed.): Attempto, oder wie stiftet man eine Universität?, Franz Steiner Verlag, 1999, p. 105

参考文献

[編集]
  • Constant von Wurzbach: Biographisches lexikon des kaiserthums Oesterreich, S. 401 f., K. K. Hof- und Staatsdruckerei, 1860