カタリーナ・フォン・エスターライヒ (1420-1493)
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カタリーナ・フォン・エスターライヒ Katharina von Österreich | |
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出生 |
1420/4年 神聖ローマ帝国 オーストリア大公国、ウィーナー・ノイシュタット |
死去 |
1493年9月11日 神聖ローマ帝国 バーデン辺境伯領、バーデン=バーデン、ホーエンバーデン城 |
埋葬 |
神聖ローマ帝国 バーデン辺境伯領、バーデン=バーデン |
配偶者 | バーデン辺境伯カール1世 |
子女 |
カタリーナ ツィンブルガ マルガレータ クリストフ1世 アルブレヒト フリードリヒ |
家名 | ハプスブルク家 |
父親 | オーストリア公エルンスト |
母親 | ツィンバルカ・マゾヴィエツカ |
カタリーナ・フォン・エスターライヒ(ドイツ語:Katharina von Österreich, 1420/4年 - 1493年9月11日)は、バーデン辺境伯カール1世の妃。
生涯
[編集]カタリーナはオーストリア公エルンストとツィンバルカ・マゾヴィエツカの娘である。長兄フリードリヒ3世は1452年に神聖ローマ皇帝となった。カタリーナは兄フリードリヒ3世やアルブレヒト6世とともにウィーナー・ノイシュタットで育った[1]。
1447年7月15日にプフォルツハイムでバーデン辺境伯カール1世と結婚し、カール1世に持参金として3万ドゥカートをもたらした[2]。カタリーナは自分が高位であることを示すため、自らの紋章として、バーデンの紋章の横にオーストリアの紋章を加えた[3]。結婚後、カール1世はオーストリア=チロル大公ジークムントにより前方オーストリアの知事に任ぜられた。この時、カール1世はジークムントの顧問官マテウス・フンメルと知りあった[4]。
18年間の穏やかな結婚生活の後、1475年に夫カール1世は死去した。息子クリストフ1世は、寡婦となったカタリーナの住まいとしてホーエンバーデン城を譲り渡し、自身は新たにバーデン=バーデンに新城を建設した。
カタリーナは1493年に死去し、バーデン=バーデンに埋葬された。
子女
[編集]- カタリーナ(1449年 - 1484年) - 1464年、ヴェルデンベルク=ザルガンス伯ゲオルク3世と結婚
- ツィンブルガ(1450年 - 1501年) - 1468年、ナッサウ伯エンゲルベルト2世と結婚
- マルガレータ(1452年 - 1495年) - リヒテンタール女子修道院長
- クリストフ1世(1453年 - 1527年) - バーデン辺境伯
- アルブレヒト(1456年 - 1488年) - バーデン辺境伯
- フリードリヒ(1458年 - 1517年) - ユトレヒト司教
脚注
[編集]- ^ Ferdinand Carl Böheim: Chronik von Wiener-Neustadt, self-published, 1863, p. 99
- ^ Christoph Friedrich von Stälin: Wirtembergische Geschichte, J. G. Cotta'scher Verlag, 1856, p. 725
- ^ Alterthums-Verein zu Wien: Berichte und Mittheilungen des Alterthums-Vereines zu Wien, vol. 2, Buchhandlung Prandel und Meyer, 1857, p. 143
- ^ Sönke Lorenz (ed.): Attempto, oder wie stiftet man eine Universität?, Franz Steiner Verlag, 1999, p. 105
参考文献
[編集]- Constant von Wurzbach: Biographisches lexikon des kaiserthums Oesterreich, S. 401 f., K. K. Hof- und Staatsdruckerei, 1860