カシュガル・ホージャ
カシュガル・ホージャとは、イスラム教の一派であるナクシュバンディー教団の指導者(ホージャ)のうち、16世紀から18世紀にかけて東トルキスタンで独立した政権を形成した家系である。
イスハーキーヤ(黒山党)
[編集]ナクシュバンディー教団の指導者であったアフマド・カーサーニー(マフドゥミ・アザム)の次男のムハンマド・イスハーク・ワリー(? - 1599年)はサマルカンドからカシュガル、ホータン、アクス、クチャに滞在し、1599年にサマルカンドに帰還した[1]。彼の系統は、カシュガル・ホージャ家のイスハーキーヤまたはカラタグルク、黒山党[1]と呼ばれた。イスハーキーヤはヤルカンドに大きな影響力を持った。
アーファーキーヤ(白山党)
[編集]ホージャの別の系統はアフマド・カーサーニーの長男のイーシャーニ・カラーン[2]>(ムハンマド・アミーン)のものであった。
最初に東トルキスタンを訪れたのはムハンマド・アミーンの子のホージャ・ユースフ(? - 1652年/53年)であった。ホージャ・ユースフの子がホージャ・アファークであった[3]。この系統は、アーファーキーヤまたはイーシャーニーヤまたはアクタグルク(白山党)と呼ばれた[3]。
白山党は、黒山党(イスハーキーヤ)との抗争に敗北し、東トルキスタンを追放され、1671年から1672年にかけて西寧に移り[3]、そこで布教に成功し、おおくの中国ムスリム信徒(回民)を獲得した[3]。
アーファーク統の人物
[編集]- ブルハン・アッディーン
- ホージャ・ジャハーン - ブルハン・アッディーンの弟。
- ホージャ・サリムサク - ブルハン・アッディーンの子。
- ジャハーンギール・ホージャ - ブルハン・アッディーンの孫。ホージャ・サリムサクの子。1820年代に清朝に対してホージャ復活運動を展開した。
- ワリー・ハン - ジャハーンギール・ホージャの子。のちヤクブ・ベクの下に逃れるが、毒殺される。
- ブズルグ・ホージャ
史料
[編集]ヤーリング写本
[編集]スウェーデンのルンド大学図書館には、グンナ ・ヤーリング(Gunnar Jarring)の中央アジア、とりわけ東トルキスタンに関するコレクションがある[2]。このうちProv.219番写本(LundsUniversitetsbiblioteket,Gunnar Jarring Collection,Handskriftsavt,Prov.219.)には、カーシュガル・ホージャ家アーファークに関する系図などの記録が残されている。
脚注
[編集]- ^ a b 小松ほか(2000), p. 303.
- ^ a b c 新免康 & 菅原純 2002.
- ^ a b c d 小松ほか(2000), p. 304.
参考文献
[編集]- 小松久男, 林俊雄, 梅村坦, 濱田正美, 堀川徹, 石濱裕美子, 中見立夫『中央ユーラシア史』山川出版社〈世界各国史〉、2000年、302-305頁。ISBN 463441340X。全国書誌番号:20122422 。
- 羽田明『中央アジア史研究1』 臨川書店,1982年.
- 菅原純「クーチャー・ホージャの「聖戦」とムスリム諸勢力(1864-65)」『内陸アジア史研究』第11号、内陸アジア史学会、1996年3月、17-40頁、ISSN 09118993、CRID 1520009407617517824。
- 「カシュガル・ホージャ家アーファーク統の活動の一端 : ヤーリング・コレクション Prov.219 について」『東洋史研究』第61巻第3号、東洋史研究會、2002年12月、522-552頁、doi:10.14989/155440、hdl:2433/155440、ISSN 0386-9059、NAID 40005641430。
- 河原弥生「『ホージャ・ハサン・サーヒブキラーン伝』 : フェルガナ盆地における民間所蔵資料の研究」『アジア・アフリカ言語文化研究』第71巻、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所、2006年3月、205-257頁、hdl:10108/20237、ISSN 0387-2807、CRID 1050564287660727040。