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オルク・ブカ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

オルク・ブカモンゴル語: Örüg buqa、生没年不詳)は、14世紀半ばに大元ウルスに仕えたスルドス部出身の官僚。建国の功臣チラウンの末裔ながら、蒙古人枠の科挙を突破し官僚として末期の大元ウルスに仕えたことで知られる[1]

元史』などの漢文史料では月魯不花(yuèlǔbùhuā)と記される。

概要

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オルク・ブカの一族は「四駿四狗」と讃えられた建国の功臣、チラウンの子孫であるが、『元史』や『集史』に言及がなく「遜都台公墓誌銘」にのみその家系が記されている。「遜都台公墓誌銘」によると、チラウンの息子のナドルはビチクチの曾孫にトク・テムルという人物がおり、このトク・テムルこそがオルク・ブカの父であった。トク・テムルが任務で越州に赴任すると、この地でオルク・ブカは韓性に師事し漢学を学んだ。科挙郷試を受けたオルク・ブカは右榜(蒙古人・色目人)の中で第一位となり、元統元年(1333年)には進士となった。官に就いたオルク・ブカはまず台州路録事司ダルガチに任じられ、現地では孔子廟を建設するなどして儒学の振興を図った[2]

至正元年(1341年)には行都水監(治水を掌る都水監の出先機関)に属し、ついで広東廉訪司、吏部員外郎とされた[3]。至正14年(1354年)、太師・右丞相トクトによる紅巾の乱平定のための南征が始まると、オルク・ブカもこれに従軍し兵站の管理を担当した。その後、吏部郎中から監察御史に昇格となり、この頃皇帝自ら祭祀を行うこと、また皇太子に重臣をつけて指導させることなどを上奏し認められている[4]

その後、保定路ダルガチを経て吏部尚書に任じられたが、保定路を離れる時には現地の父老に保定に留まって統治を続けて欲しいと乞われ、尚書のまま現地に留まった。保定路においてオルク・ブカはよく紅巾の乱の侵攻を退けたが、遂には中央に召還されてしまった。オルク・ブカが去るのを忍びなく思った保定の住民は肖像画を作ってこれを祀ったが、オルク・ブカが保定を離れて一月と持たず保定は紅巾軍によって占領されてしまった[5]。中央に戻ったオルク・ブカは大都路のダルガチとされたが、今度は永平で叛乱を起こした程思忠を説得して投降させるよう命じられた。周囲の者は命を捨てるようなものだと引き留めたが、オルク・ブカは毅然として任務に臨み、反乱軍の説得に成功したという[6]

その後、翰林侍講学士を経て今度は江南行御史台の中丞に任じられたオルク・ブカは、海路より紹興に入った[7]。折しも浙江地方では張士誠が自立を始めており、紹興から逃れざるを得なくなったオルク・ブカは妻子らを帯同して船で慶元まで逃れ、これを察知した張士誠の部下がこれを追跡したが追いつけなかったという[8]

紹興から逃れた後は山南道廉訪使に任じられ、海路から北方に向かおうとしたが、その道中でオルク・ブカ一行は倭寇に遭遇した。オルク・ブカは賊に屈服することをよしとせず殺され、同行していた次男の老安・甥の百家奴ら80人余りがこの時ともに亡くなった[9]

スルドス部ソルカン・シラ家

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脚注

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  1. ^ 蕭啓慶2008,124-125頁
  2. ^ 『元史』巻145列伝32月魯不花伝,「月魯不花字彦明、蒙古遜都思氏。生而容貌魁偉、咸以令器期之。未冠、父脱帖穆耳以千戸職戍越、因受業于韓性先生、為文下筆立就、粲然成章。就試江浙郷闈、中其選、居右榜第一。方掲曉、試官夢月中有花象、已而果符其名、人以為異。遂登元統元年進士第、授将仕郎・台州路録事司達魯花赤。県未有学、乃首建孔子廟、既又延儒士為之師、以教後進。丁外艱」
  3. ^ 『元史』巻145列伝32月魯不花伝,「至正元年、朝廷立行都水監、以選為其監経歴。尋擢広東廉訪司経歴。会廷議将治河決、以行都水監丞召之、比至、改集賢待制、除吏部員外郎。奉命至江浙糴粟二十四万石、至則第戸産之高下、以為糴之多寡、不擾而事集。既而軍餉不給、又奉命出糴于江浙、召父老諭曰『今天子宵衣旰食、惟恐澤不下民而民不得其所耳、然奈盗賊何。夫討賊者必先糧餉、以我不汝擾、故命我復来、蓋討賊即所以安民耳。父老其謂何』。衆咸応曰『公言是也』。不踰月、糧事以畢。丁母憂、中書遣賻且起復、不応」
  4. ^ 『元史』巻145列伝32月魯不花伝,「未幾、太師・右丞相脱脱南征、辟従軍事、督饋餉、饋餉用舒。陞吏部郎中、尋拜監察御史。首上疏言『郊廟礼甚缺、天子宜躬祀南郊、殷祭太室』。継又上疏言『皇太子天下之本、掌簡老成重臣為輔導、以成其徳』。帝皆嘉納之。陞吏部侍郎、銓選於江浙、時称其公允。適朝廷有建議欲於河間・長蘆置局造海船三百艘者、月魯不花即為書具言其非便。言入中書、忤議者、遷工部侍郎。後分部彰徳、道過河間、民遮擁拜謝曰『微公言、吾民其斃矣』」
  5. ^ 『元史』巻145列伝32月魯不花伝,「会方重選守令、以保定密邇京畿、除保定路達魯花赤、陛辞、詔諭諄切。保定歳輸糧数十万石於新郷、苦弗便。月魯不花請輸京倉以便之。俄除吏部尚書。保定父老百数詣闕、言乞留監郡以撫吾民、遂以尚書仍知郡事。会賊北渡河、日修城浚濠為戦守具。廷議発五省八衛軍出戍外鎮、月魯不花疏願留其兵護本郡、遂兼統黒軍数千人及団結西山八十二寨民義軍、勢大張。賊再侵境、皆不利、遁去。陞中奉大夫、錫上尊四・馬百匹、僚佐増秩有差、別降宣勅俾賞有功者。召還為詳定使。保定民不忍其去、絵像以祀之。去保定一月而城陥矣」
  6. ^ 『元史』巻145列伝32月魯不花伝,「朝廷以月魯不花夙負民望、令入城招諭之、抵城、賊堅壁不出、民多窃出謁拜者。改大都路達魯花赤。有執政以故中書令耶律楚材先塋地冒奏与蕃僧為業者、月魯不花格之、卒弗与。転吏部尚書。会劇賊程思忠拠永平、其佐雷帖木児不花偽降、事覚被擒、殺之、思忠壁守遂益堅。詔令月魯不花招撫之、衆悉難其行、月魯不花毅然曰『臣死君命、分也、奈何先計禍福哉』。竟入城諭賊、賊皆感泣羅拜納降」
  7. ^ 『元史』巻145列伝32月魯不花伝,「還、遷翰林侍講学士、俄復為大都路達魯花赤。入見帝宣文閣、有旨若曰『朕以畿甸之民疲敝、特選爾撫吾民。爾毋峻威、毋弛法、或挾以干汝於非法、其即以聞』。視事之初、帝及皇后・皇太子皆遣使賜之酒。有権臣以免役事来謁、月魯不花面斥曰『聖訓在耳、不敢違』。転資善大夫、拜江南行御史台中丞。陛辞之日、帝御嘉禧殿慰労之、且賜以上尊・金幣;皇太子亦書『成徳誠明』。四大字賜之。月魯不花乃由海道趨紹興、為政寛猛不頗。詔進階一品為栄禄大夫。既而除浙西粛政廉訪使」
  8. ^ 『元史』巻145列伝32月魯不花伝,「会張士誠拠浙西。僭王号、度弗可与並処、謂姪同寿曰『吾家世受国恩、恨不能刺賊以報国、矧乃与賊同処邪』。令同寿具舟載妻子、而匿身木櫃中、蔽以藁秸、脱走、至慶元。士誠部下察知之、遣鉄騎百餘追至曹娥江、不及而返」
  9. ^ 『元史』巻145列伝32月魯不花伝,「俄改山南道廉訪使、浮海北而往、道阻、還抵鉄山、遇倭賊船甚衆、乃挾同舟人力戦拒之、倭賊紿言投降、弗納。於是賊即登舟攫月魯不花令拜伏、月魯不花罵曰『吾朝廷重臣、寧為賊拜邪』。遂遇害。当遇害時、麾家奴那海刺殺首賊。次子枢密院判官老安・姪百家奴扞敵、亦死之。同舟死事者八十餘人。事聞、朝廷贈攄忠宣武正憲徇義功臣・銀青栄禄大夫・遼陽等処行中書省平章政事・上柱国、諡忠粛」

参考文献

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  • 蕭啓慶『元代的族群文化与科挙』連経出版、2008年
  • 元史』145列伝32
  • 新元史』巻121列伝18
  • 蒙兀児史記』巻38列伝10