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オボトリート族

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
オボトリート族
ポラーブ・スラヴ人
ノルトアルビンギエン
ビルング家
8世紀 - 1167年 神聖ローマ帝国
メクレンブルク公国
ザクセン公国
デンマーク王国
オボトリート族の位置
オボトリート族の支配領域
公用語 ポラーブ語古ザクセン語
首都 メクレンブルク(Dorf Mecklenburg
族長
? - 795年 ヴィツァン(Witzan
1160年 - 1167年プリビスラフ英語版
変遷
成立 8世紀
ザクセンの宗主権を受容1167年
現在ドイツの旗 ドイツ

オボトリート族あるいはオボドリート族ラテン語:Obotriti, Abodritorum, Abodritos, : Obotriten, Obodriten, Abodriten,, : Obotrites, Obodrites, Abodrites)は、現在のドイツ北部のメクレンブルクおよびホルシュタインを支配した西スラヴ人の部族[1]サクソン人およびヴェレティ族英語版との戦いのためカール大帝と同盟を結んだ。798年には族長トラスコ英語版のもと、ボルンヘーフェトの戦いでザクセン人を破った。ザクセン人は神聖ローマ皇帝により追い払われ、エルベ川北部のホルシュタインのザクセン人の領域は、804年にオボトリート族に与えられた。しかしその後デーン人の侵攻によりこの地はザクセン人の支配に戻った。

1167年、族長プリビスラフ英語版ザクセン公ハインリヒ獅子公によりメクレンブルク侯に叙されると、ザクセン公の宗主権を受け入れたことで、オボトリート族の独立支配は終わった。これによりメクレンブルク家が成立した。

オボトリート連合

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オボトリート連合の分布図。ザクセン公国の北東の辺境で、ビルング家の所領の北端部(独: Billunger Mark)(紀元1000年前後)
オボトリート族長ニクロト英語版の銅像(1090年–1160年)

830年にレーゲンスブルクで編集された『バイエルン地理学者』Geographus Bavarus (英語)という匿名の中世文書には、エルベ川東岸にいた中央ヨーロッパ東部の部族名の一覧がある。そこに Nortabtrezi(オボリート族)が記され—「キウィタス」(市民による政治共同体)が53ヵ所あったとしている[2]

ブレーメンのアダムは、それらの共同体に北欧系とスラブ系の人々が共生し、盛んに交易を行うレリク(英語)であったことから、レレギ(Reregi)として言及した。一般的にドイツ語文献においては、他のスラブ系集団とまとめて、しばしばヴェンド人と記述された。

オボトリート部族連合の主な部族を示す[3]

その他、オボトリート部族連合と関連のある部族は次を含む[3]

  • Linonen エルベ川支流の町レンツェン(英語)近辺。
  • Travnjane トラーヴァ川沿い。
  • ドレヴァニ族(英語) ハノーファーの湿地帯(英語)

歴史

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歴代オボトリート族長

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オボトリート族の支配者はプリビスラフ(メクレンブルク侯)を末代として、後にメクレンブルク公となった。

族長 在位 付記
ヴィツァン英語版 ? - 795年頃
トラスコ英語版 ? - 795年 - 810年
スラボミール(Slavomir) ? - 810年 - 819年 フランク王国と同盟を結ぶ。816年、ソルブ人の反乱に参加。最終的に捕まりオボトリート族の人々により廃され、818年にセドラグが族長となった。
セドラグ(Ceadrag) 819年 - 826年以降 フランク王国と同盟を結ぶ。のちデーン人と同盟を結びフランク王国に対し反乱を起こすが、和睦した。
セリブール(Selibur)
ナコン(Nako 954年 - 966年 ナコンとその兄弟ストイクニュー(Stoigniew)は955年オットー大帝に敗れた。その後ストイクニューが斬首され、ナコンはキリスト教に改宗し、30年平和が続いた。
ミスティヴォイ(Mstivoj
ミスティドラク(Mstidrag)
966年 - 995年 ナコンの息子。キリスト教を棄て、神聖ローマ帝国に対し反乱を起こした。
ミツイ 919年 - 999年 995年オットー3世に敗れた。
ミスティスラフ(Mstislav 996年 - 1018年
ウド(Udo
(またはPrzybigniew)
1018年 - 1028年
ラティボル(Ratibor 1028年 - 1043年
ゴットシャルク英語版 1043年 - 1066年
ブディフォイ(Budivoj 1066年、1069年
クルト(Kruto 1066年 - 1069年
1069年 - 1093年
ハインリヒ 1093年 - 1127年
ニクロト英語版 1131年 - 1160年 1090年頃生まれ。ケシニア族(Kessinians)およびツィルツィパーニ族(Circipania)を征服し支配した。
プリビスラフ英語版 1160年 - 1167年 最後のオボトリート族長、1167年にザクセン公の宗主権を受け入れた。

脚注

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  1. ^ Jensen 2006, p. 3
  2. ^ Dragnea 2021, pp. 41–61
  3. ^ a b Herrmann 1970, pp. 7–8

参考文献

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主な執筆者名の50音順、アルファベット順。

日本語文献
洋書
  • Dragnea, Mihai (2021). “Crusade and Colonization in the Wendish Territories in the Early Twelfth Century: An Analysis of the So-called Magdeburg Letter of 1108” (英語). Mediaevalia (State University of New York Press) 42: 41-61. 
  • Herrmann, Joachim (1970) (ドイツ語). Die Slawen in Deutschland. Berlin: Akademie-Verlag GmbH }
  • Jensen, Carsten Selch (2006). "Abodrites" (PDF). In Murray, Alan V. (ed.). The Crusades: An Encyclopedia. Vol. 1. サンタバーバラ: ABC-CLIO. p. 3. OCLC 70122512

関連文献

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本文中に使われていない文献・資料。出版年順。

  • Turasiewicz A., Dzieje polityczne Obodrzyców od IX wieku do utraty niepodległości w latach 1160 - 1164, Warszawa 2004, ISBN 83-88508-65-2 (ポーランド語)

外部リンク

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