オットカール4世 (シュタイアーマルク公)
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オットカール4世 Ottokar IV. | |
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シュタイアーマルク公 | |
在位 | 1180年 - 1192年 |
称号 | シュタイアーマルク辺境伯(1164年 - 1180年) |
出生 |
1163年 |
死去 |
1192年5月8日 |
家名 | オタカール家(トラウンガウ家) |
父親 | シュタイアーマルク辺境伯オットカール3世 |
母親 | クニグンデ・フォン・フォーブルク |
オットカール4世(ドイツ語:Ottokar IV., 1163年 - 1192年5月8日)またはオタカール4世(Otakar IV.)は、シュタイアーマルク辺境伯(在位:1164年 - 1180年)、シュタイアーマルク公(在位:1180年 - 1192年)。
生涯
[編集]オットカール4世はシュタイアーマルク辺境伯オットカール3世とクニグンデ・フォン・フォーブルクの息子である。
父オットカール3世が死去した時、オットカール4世はわずか1歳であったため、1180年にオットカール4世が成年に達するまで母クニグンデが義母ゾフィーのやり方に倣って統治をおこなった。1180年、ハインリヒ獅子公が領地を没収の上追放された後、シュタイアーマルクはバイエルンから切り離され独立した公領となり、義理の伯父にあたり母の姉の夫であった皇帝フリードリヒ1世により、オットカール4世はシュタイアーマルク公とされた。
オットカール4世は1170年から1183年の間にフュルステンフェルトの町を造った。
オットカール4世はハンセン病にかかり、嗣子を得られる望みが絶たれてしまった。1186年8月17日に、オットカール4世はバーベンベルク家のオーストリア公レオポルト5世とエンスで会い、相続協定(ゲオルゲンベルク協定)を結び、この協定は皇帝フリードリヒ1世によって承認された。初代シュタイアーマルク公であったオットカール4世は1192年5月8日に死去し、オタカール家は断絶した。
参考文献
[編集]- Karl Brunner: 907–1156. Herzogtümer und Marken. Vom Ungarnsturm bis ins 12. Jahrhundert (= Herwig Wolfram (ed.): Österreichische Geschichte.). Ueberreuter, Wien 1994, ISBN 3-8000-3521-9.
- Heinz Dopsch: Otakar IV. In: Neue Deutsche Biographie (NDB). Band 19, Duncker & Humblot, Berlin 1999, ISBN 3-428-00200-8, S. 640 f. (電子テキスト版).
- Heinz Dopsch, Karl Brunner, Maximilian Weltin: 1122–1278. Die Länder und das Reich. Der Ostalpenraum im Hochmittelalter (= Herwig Wolfram (ed.): Österreichische Geschichte). Ueberreuter, Wien 2003, ISBN 3-8000-3973-7.
- Hans Pirchegger: Geschichte der Steiermark. Band 1: Bis 1283. (= Allgemeine Staatengeschichte. Abt. 3: Deutsche Landesgeschichten. Werk 12, 1). Pertes, Gotha 1920.
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