エル・アタラヨン水上機基地
エル・アタラヨン水上機基地 Base de Hidroaviones del Atalayón | |||||||
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エル・アタラヨン水上機基地 | |||||||
IATA: ? - ICAO: ? | |||||||
概要 | |||||||
国・地域 | スペイン保護領モロッコ | ||||||
所在地 | ブーアレグ潟湖 | ||||||
母都市 | メリリャ | ||||||
種類 | 軍民共用 | ||||||
所有者 | |||||||
運営者 |
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開設 | 1921年7月27日 | ||||||
閉鎖 | 1950年7月31日 | ||||||
拠点航空会社 | アラ・リットリア | ||||||
標高 | 0 m (0 ft) | ||||||
座標 | 北緯35度12.分28.8秒 西経2度54分37.5秒 / 北緯35.208000度 西経2.910417度座標: 北緯35度12.分28.8秒 西経2度54分37.5秒 / 北緯35.208000度 西経2.910417度 | ||||||
地図 | |||||||
エル・アタラヨン水上機基地の位置 | |||||||
滑走路 | |||||||
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空港の一覧 |
エル・アタラヨン水上機基地(Base de Hidroaviones del Atalayón)は、かつてモロッコに存在したスペイン軍の水上機基地である。
地理
[編集]メリリャの南方数キロに存在するブーアレグ潟湖の、エル・アタラヨン半島付近の湖上に置かれた。
歴史
[編集]スペイン保護領時代の1921年、リーフ戦争のさなかに設置された。当初はサヴォイア・マルケッティS.66を運用した。
第三次リーフ戦争
[編集]第三次リーフ戦争における水上機の出撃拠点の一つとなった。スペイン軍は化学兵器使用のためドルニエ Do Jヴァールを購入し、当基地に配備した。メリリャにおいて、マドリードで製造されたマスタードガスが航空爆弾に充填され、基地に運ばれた。部隊は第一次世界大戦中、フリッツ・ハーバーの助手であり化学戦に従事したフーゴ・シュトルツェンベルクの策定した「汚染戦略」にしたがって、リーフ共和国の後背地に爆撃を行った。
スペイン内戦
[編集]内戦勃発直前には基地にはスペイン陸軍航空隊のアフリカ空軍水上機飛行隊が置かれていた。基地はヴィルヒリオ・レレト・ルイス大尉の指揮下にあった。
メリリャでのクーデターの際、レレトはクーデターへの参加を拒否し、人民戦線政府への忠誠を貫いた。レレトはわずかな守備隊を率いて蜂起軍の攻撃に抵抗した。この戦いで蜂起軍に内戦初の死傷者が出た。しかしセガンガンからメリリャに向かっていたモハメド・ベン・ミジアン少佐率いる第5原住民正規兵群が、行軍を中止して基地攻略に加わり、弾薬の尽きた守備隊は降伏した。レレトは配下の二人の中尉とともに、蜂起軍が基地の航空兵から選抜して編成した銃殺隊によって処刑された。
内戦中、基地にはドイツのハインケルHe 59水上機が駐留し、共和派地域の港への攻撃を行った。
戦後
[編集]フランコ政権初期、基地は再びDo J部隊(スペイン空軍アフリカ空軍第51水上機分遣隊)の基地として用いられた。また、イタリアのアラ・リットリアの水上旅客機が乗り入れ、タウイマ飛行場とともにメリリャとナドールの空の玄関口となったが、1940年、イタリアが第二次世界大戦に参戦したことでアラ・リットリアは撤退を余儀なくされた[1]。基地は1950年に閉鎖された。
脚注
[編集]出典
[編集]- ^ 運輸・モビリティ・都市計画省 (September 2017). “Antecedentes y Marco Jurídico” [Reseña Histórica del Aeropuerto] (スペイン語). p. 5-6. April 8, 2023時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年11月23日閲覧。