エルキュール・グリマルディ
エルキュール・グリマルディ Hercule Grimaldi | |
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デ・ボー侯 | |
馬上のデ・ボー侯爵 | |
在位 | 1642年 - 1651年 |
出生 |
1623年12月16日 フランス王国、パリ |
死去 |
1651年8月2日(27歳没) モナコ公国、モンテカルロ |
配偶者 | マリーア・アウレーリア・スピノラ |
子女 |
ルイ1世 マリーア・イッポーリタ ジョヴァンナ・マリーア テレーザ・マリーア |
家名 | グリマルディ家 |
父親 | モナコ公オノレ2世 |
母親 | イッポーリタ・トリヴルツィオ |
デ・ボー侯爵エルキュール・グリマルディ(Hercule Grimaldi, marquis des Baux, 1623年12月16日 - 1651年8月2日)は、初代モナコ公オノレ2世の長男で後継者[1]。
生涯
[編集]オノレ2世とミラノ貴族メルツォ伯爵家の娘イッポーリタ・トリヴルツィオの間の一人息子。1642年より、父が宗主のフランス王ルイ13世に授けられた従属称号の1つ、デ・ボー侯爵の称号を名乗った[2]。長じて有能な軍指揮官となり、セッラヴァッレ・ランゲを攻撃し砦の歩哨を捕虜とする軍功を立てた[3]。
1641年7月4日、マリーア・アウレーリア・スピノラと結婚[1]、4人の子が生まれ全員が成人した。舅のモルフェッタ公ルーカ・スピノラはジェノヴァ共和国の名門スピノラ家の一員であった[4]。
1651年初夏、デ・ボー侯爵は妻子とマントンのカルノール修道院を訪問した。モナコへの帰国後、侯爵は数人の衛兵と共に居城の中庭で実弾による射撃ゲームを始めた[5]。衛兵の1人が銃器が壊れていないか確かめようとして実弾を誤射し、侯爵と他の衛兵2名を負傷させた。侯爵は脊椎を損傷する致命傷を負い、治療の甲斐なく事故の翌日に27歳の若さで死んだ[5]。誤射した衛兵は罪に問われないはずだったが、投獄されたため自殺未遂を起こした。その後この衛兵は解放され、2度とモナコに帰らなかった[5]。
地元の聖職者が残した侯爵の死に関する記録によれば、侯爵は死ぬ前に自分の死を告げる幽霊に出くわしたとされる[5]。
長男ルイが祖父の後を継いでモナコ公家の当主となった。
子女
[編集]- ルイ1世(1642年 - 1701年) - モナコ公、1660年カトリーヌ・シャルロット・ド・グラモンと結婚
- マリーア・イッポーリタ(1644年 - 1694年) - モンタフィーア公カルロ・エマヌエーレ・フィリベルト・デ・シミアーネと結婚
- ジョヴァンナ・マリーア(1645年 - 1710年) - フランカヴィッラ公アンドレーア・インペリアーリと結婚
- テレーザ・マリーア(1648年 - 1723年) - サン・マルティーノ侯爵シジスモンド3世・デステと結婚
末娘テレーザ・マリーアの曾孫マッサ・カッラーラ女公マリーア・テレーザを通じて、デ・ボー侯爵はルクセンブルク大公アンリなど現在の欧州諸王家の先祖の1人に数えられる[1]。
引用・脚注
[編集]- ^ a b c van de Pas, Leo. “Ercole Grimaldi, Marquis des Baux”. Genealogics.org. 2013年4月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年3月1日閲覧。
- ^ Velde, François. “Monaco”. Heraldica.org. 2010年10月23日閲覧。
- ^ The Mad Monarchist (March 24, 2010). “The Tragic Prince Hercules”. Mad for Monaco. madformonaco.blogspot.com. September 17, 2012閲覧。
- ^ Malleson, George Bruce (2010) [1875]. Studies from Genoese History. Read Books Design. p. 294. ISBN 1-4455-6775-X
- ^ a b c d The Mad Monarchist (April 10, 2012). “Whatever Happened to Hercules”. Mad for Monaco. madformonaco.blogspot.com. September 17, 2012閲覧。