エリー・ド・スミュール=アン=ブリオネ
エリー・ド・スミュール=アン=ブリオネ Hélie de Semur-en-Brionnais | |
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スミュール家の紋章 | |
配偶者 | ブルゴーニュ公ロベール1世 |
子女 |
ユーグ(1034年 - 1059年) アンリ(1035年 - 1074年?) ロベール(1040年 - 1113年) シモン(1045年 - 1087年) コンスタンス(1046年? - 1093年?) |
称号 | ブルゴーニュ公妃 |
家名 | スミュール家 |
父親 | スミュール=アン=ブリオネ副伯ダルマス1世 |
母親 | アランブルジュ・ド・ヴェルジー |
出生 | 1016年頃 ブルゴーニュ公国 スミュール=アン=ブリオネ城 |
死亡 | 1056年4月22日 |
エリー・ド・スミュール=アン=ブリオネ(Hélie de Semur-en-Brionnais, およそ1016年 - 1056年)は、ブルゴーニュ公ロベール1世の最初の妃。アンリ・ド・ブルゴーニュ及びカスティーリャ王アルフォンソ6世妃コンスタンス・ド・ブルゴーニュの母。
ブルゴーニュ公ロベール1世との結婚
[編集]父スミュール=アン=ブリオネ領主ダルマス1世(ダルマスあるいはダマス)、その妻で母ブルゴーニュ公アンリ1世公女にして、フランス王ユーグ・カペーの姪に当たるアランブルジュ・ド・ヴェルジーの長女。
1033年に母方の又従兄に当たるロベール1世と結婚した。ロベールはエリーとの結婚でスミュール=アン=ブリオネ領主であり、オータンとシャロレーの裕福な一族であるスミュール家と同盟を結んだ。
またエリーはクリュニー修道院長であるクリュニーのユーグ [1](1024年 - 1109年)の実姉であり、オセール司教であるシャロン伯ユーグ1世の姪孫に当たる。
ロベールはクリュニーのユーグの義兄となり、教会・聖職者との繋がりができた。
夫ロベール1世は暴力的かつ気性の激しい性格であり、エリーの実父ダルマス1世は何かの理由によりロベール1世の怒りを買い、招かれた晩餐会で殺害され(毒殺説と帰りを待ち伏せて殺害された説の2説存在する)、また父の殺害にエリーの4番目の弟ジョスランも巻き込まれ、ロベールに殺害されている。
ダルマス1世の死後、ロベール1世はエリーとの親族関係による婚姻の無効を教会に訴え、離婚が成立した。
離婚後、エリーは尼僧となり名をペトロニーユと改め、マルシニー修道院もしくはボーヌの修道院に隠棲したとされ[2]、1056年4月22日に死去したとされる。