コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ウォーレス・ハンフリー・ホワイト・ジュニア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ウォーレス・ハンフリー・ホワイト・ジュニア
Wallace Humphrey White, Jr.
ウォーレス・ハンフリー・ホワイト・ジュニア
生年月日 1877年8月6日
出生地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国メイン州ルイストン
没年月日 (1952-03-31) 1952年3月31日(74歳没)
死没地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国メイン州オーバーン
出身校 ボウディン大学
前職 秘書弁護士
所属政党 共和党
称号 法学士(ボウディン大学)
親族 ウィリアム・P・フライ(祖父)

在任期間 1943年 - 1949年1月3日

選挙区 メイン州第2選挙区
当選回数 7回
在任期間 1917年3月4日 - 1931年3月3日

選挙区 メイン州選挙区
当選回数 9回
在任期間 1931年3月3日 - 1949年1月3日
テンプレートを表示

ウォーレス・ハンフリー・ホワイト・ジュニアWallace Humphrey White, Jr., 1877年8月6日 - 1952年3月31日)は、1916年から1949年までアメリカ合衆国議会の著名なアメリカ合衆国政治家で、共和党の指導者である。メイン州出身で、上院議員に当選するまでは、下院に勤めた。上院では少数党院内総務を、また引退前には多数党院内総務を務めた。

ホワイトは、ルイストンで生まれた。祖父ウィリアム・P・フライも著名な政治家であり、メイン州選出上院議員及び上院仮議長を務めた。1899年、ホワイトはブランズウィックボウディン大学を卒業した。卒業後、上院商業科学運輸委員会事務局員補佐を務め、のちに祖父の秘書となった。法学を学んで弁護士資格を獲得し、ルイストンで事務所を開設した。

1916年に共和党員として下院議員に当選して以来、ホワイトの政治家人生は始まった。彼は翌年3月4日に初登院し、1931年3月3日(第65議会から第71議会)まで奉職した。彼は、1930年末に上院議員に当選したことにより、1931年に下院を去った。

議会では、司法省内の下院歳出委員会第66議会)、下院女性参政権委員会(第67議会 - 第69議会)、下院商船漁業委員会、(第70議会 - 第71議会)、上院州間・対外通商委員会(第80議会)の委員を務めた。このほか、大統領から種々の委員会委員に任命された。

ホワイトは1936年と1942年に再選し、1931年3月4日から1949年1月3日まで奉職した。同僚議員らによって少数党院内総務(1943年 - 1947年)に選ばれ、共和党が第80議会(1947年 - 1949年)で多数を占めたことに伴い、多数党院内総務となった。ジョン・ガンサーが1947年に上梓した著作『米国の内幕 (Inside U.S.A.) 』によると、有名無実の院内総務たる「彼の主な役目は、遥かに有力かつ活発な2人の人物、タフトヴァンデンバーグとの均衡を保つことである...皆がホワイトに好感を持っているが、彼に注意を払う者はほとんどいない」とのことであった。

彼は、1948年の再指名の候補から外れた。オーバーンで死去し、マウント・オーバーン墓地に埋葬された。

議会
先代
ダニエル・J・マクギリカディ
メイン州第2下院議員選挙区
1917年 - 1931年
次代
ドナルド・B・パートリッジ
先代
アーサー・R・グールド
メイン州上院議員選挙区
1931年 - 1949年
次代
マーガレット・チェイス・スミス
党職
先代
チャールズ・L・マクナリー
オレゴン州
上院院内総務
1945年 – 1949年
代行: 1943年 - 1945年
次代
ケネス・S・ウェリー
ネブラスカ州