ウィリー・ウェーバー
ウィリー・ウェーバー Willi Weber | |
---|---|
生誕 |
Wilhelm Friedrich Weber 1942年3月11日(82歳) ドイツ国バイエルン州レーゲンスブルク |
国籍 | ドイツ |
職業 | 代理人 |
活動拠点 | シュトゥットガルト |
ウィルヘルム・"ウィリー"・フリードリッヒ・ウェーバー(Wilhelm "Willi" Friedrich Weber, 1942年3月11日 - )は、ドイツバイエルン州レーゲンスブルク出身の代理人。ドイツ語の発音に従えば名前の日本語表記は「ヴィリー・ヴェーバー」になる。F1のミハエル・シューマッハ、ラルフ・シューマッハ兄弟などのマネージャーとして知られる。また、スーパーモデルのクラウディア・シファー、ナオミ・キャンベルとも契約している。
略歴
[編集]モータースポーツへの関わり
[編集]25歳の時、飲料事業を起業。投資に失敗して財産を失うが、飲食店経営者として成功を収める。趣味として子供の頃から憧れていたレース活動を始めるが、40歳を越えたため選手としての活動には見切りをつけた。
1983年、F3チームを譲り受け、友人のクラウス・トレラとともにWTS(ウェーバー・トレラ・シュトゥットガルト)を結成。ドイツF3選手権において、ヨアヒム・ビンケルホック(1988年)、ミハエル・シューマッハ(1990年)、ペドロ・ラミー(1992年)、ヨス・フェルスタッペン(1993年)らチャンピオンを輩出した。国際大会でもミハエルと弟のラルフ・シューマッハがマカオGP、ラミーとフェルスタッペンがマスターズF3で優勝した。
また、A1グランプリに参戦したドイツチームのシートホルダー(チーム所有者)を開幕年の2005 - 2006シーズンから2007 - 2008シーズンまで勤めた。スーパーノヴァ・レーシングが運営するドイツチームは2006 - 2007シーズンに総合優勝した。
トロ・ロッソ代表フランツ・トストも、かつてはウェーバーの部下としてWTSの運営を行っていた。
ミスター20%
[編集]1989年、フォーミュラ・フォードに参戦していた20歳のミハエル・シューマッハに注目し、WTSのシートを与え、10年間のマネージメント契約を結ぶ。ミハエルは同年のドイツF3で年間2位となり、1990年にはチャンピオンを獲得。また、メルセデス・ベンツの若手育成プログラム(メルセデス・ジュニアチーム)に選ばれ、世界スポーツプロトタイプ選手権 (WSPC) に参戦した。
1991年、F1のジョーダンチームのベルトラン・ガショーがタクシー運転手との揉め事で収監されると、ウェーバーとメルセデス監督ヨッヘン・ニアパッシュは50万ドルの持参金付きで空いたシートを確保。ミハエルがF1デビュー戦ベルギーGPで予選7位を獲得して脚光を浴びると、直ちにベネトンへの電撃移籍を成立させた。
その後、フェラーリ在籍期間も含め、2006年の引退まで18年間ミハエルのマネージメントを担当した。チームとの契約交渉のほか、DEKRA(自動車車検機関)やDVAG(金融グループ)などの個人スポンサーとの契約、"MS"ブランドのライセンス管理などを引き受け、ミハエルをスポーツ選手有数の高額収入者とした。F3の最初の契約の際、「シューマッハの収入の20%を受け取る」との条件を交したことから、ウェーバー自身も巨額の報酬を得ることとなり、ミスター20%と渾名された[1]。
なお、2010年に現役復帰したミハエルのマネージメントは、フェラーリ時代からの女性広報ザビーネ・ケームが担当している[2]。
その他のドライバー
[編集]ミハエルのマネージメントで名を馳せたウェーバーは、その他の若手ドライバーのF1進出にも関与している。
1995年より2005年まで、ミハエルの実弟ラルフ・シューマッハのマネージングも担当した。ラルフはドイツF3→日本のトップフォーミュラ挑戦[3]→ジョーダンからF1デビュー、というミハエルと同じ道筋をたどった。ウェーバーはこれまで交わした契約の中で1番良いものとして、ラルフとトヨタの3年契約(2005年から2007年までで推定5000万ユーロ)を挙げている[4]。トム・コロネルもドイツF3から日本のレース界へ進み、全日本F3とフォーミュラ・ニッポンのチャンピオンを獲得した。
また、ポスト・シューマッハ兄弟としてニコ・ヒュルケンベルグをサポートし、2010年のウィリアムズ入りに導いた。ウェーバーは彼の才能を評価し、「ハルク」というニックネームで呼んだ[5]。2011年、ヒュルケンベルグはレギュラーシートを失い、ウェーバーとの関係も終了することになった[6]。
エピソード
[編集]- 1991年8月、ミハエル・シューマッハのF1デビューの際、F1マシンでの経験がとても浅い点を不安がるエディ・ジョーダンに対してウェーバーは「スパはミハエルのホームコースで走り慣れている」と説得した。確かにシューマッハの地元ケルペンから距離は近かったが、実際は一度も走ったことがなく、サーキットに行く道も知らなかった。ベルギーGPの週末、シューマッハは自ら持ち込んだ折り畳み自転車で初めてスパのコースを周回し、独力でコースを学習した[7]。
- 8月22日に結ばれたこのジョーダンとシューマッハの契約書文面には「1991年ベルギーGPに私(ミハエル)を起用してもらえるのならば、エディ・ジョーダンが望んだ場合私は次戦イタリアGPを前に1993年(メルセデスの承認があれば1994年)までのドライバー契約にサインすることを約束する。」と原文では記されており、3年契約で押さえられていた。しかしウェーバーが the とあった箇所を a と些細な修正をし、「3年のドライバー契約」を「3年の間に何らかの契約」と解釈できるよう変更したあとでジョーダンにサインさせた。この一文の解釈と契約有効性の法廷を経て、シューマッハのベネトン移籍は決行された。ジョーダンは「この世界は多くの契約書が在りすぎるので、細部を把握しきれていなかった。この件で学んで、以後はすべての文章に注意を払うようになった。例えばサッカー選手と1試合だけ契約するなんて普通ないだろう?でもF1の世界では the とあるべき個所を a とするだけで大きな違いになってしまう。彼がその後ベネトンで成し遂げたことを見ていて、我々も同じことが出来たかもしれないと考えると、アンラッキーな出来事だった。」と回想し、ウェーバーは「 a contract は”契約”にサイン、つまりファクトリー訪問でも何でもいいんだ。重要だったのは、エディが1992年にヤマハV12エンジンを積もうと交渉しているのを見て、それは我々が期待するものではなかった。この a が我々を救ったんだ。あのまま the contract の契約書のままでサインしていたら、1992年のジョーダン・ヤマハで多くのものを棒に振っただろう。」と述べている[8]。
脚注
[編集]- ^ 『皇帝ミハエル・シューマッハの軌跡』、pp48 - 49。
- ^ “ザビーネ・ケーム、ミハエル・シューマッハの新マネージャーに”. F1-Gate.com. (2010年3月3日) 2011年10月1日閲覧。
- ^ シューマッハ兄弟はいずれもチームルマンと契約。ミハエルは1991年の全日本F3000に1戦のみスポット参戦。ラルフは1996年のフォーミュラ・ニッポンにフル参戦して初代チャンピオン獲得。
- ^ 『皇帝ミハエル・シューマッハの軌跡』、p50。
- ^ “ニコ・ヒュルケンベルグ”. ESPN F1 2011年10月1日閲覧。
- ^ “ニコ・ヒュルケンベルグ、ウィリー・ウェバーと決別”. F1-Gate.com. (2011年5月14日) 2011年10月1日閲覧。
- ^ Hilton, Christopher (2006). Michael Schumacher: The whole story. Haynes. pp. 62–66. ISBN 1-84425-008-3
- ^ 逃した魚はあまりに大きかった・鮮烈デビューのミハエル・シューマッハーをわずか1戦で失ったジョーダンF1、明暗分けた契約書トリック Motorsport.com 2023年1月24日
参考文献
[編集]- ZEITGEIST MEDIA編著、原田京子訳 『皇帝ミハエル・シューマッハの軌跡 - Danke,Schumi!』 ブックマン社、2007年、ISBN 978-4893086655