ウィリアム・ブレイク・リッチモンド
ウィリアム・ブレーク・リッチモンド William Blake Richmond | |
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21歳の時の自画像 | |
生誕 |
1842年11月29日 イギリス、ロンドン |
死没 |
1921年2月11日 (78歳没) イギリス、ハマースミス |
ウィリアム・ブレーク・リッチモンド(Sir William Blake Richmond RA、1842年11月29日 - 1921年2月11日)は、イギリスの画家、工芸家である。肖像画やモザイクによる建築装飾、ステンドグラス制作の分野などで働いた。セント・ポール大聖堂のモザイク装飾などで知られている。
略歴
[編集]ロンドン中心部のメリルボーンで生まれた[1]。多くの芸術家を輩出した一族の出身で、父親のジョージ・リッチモンド(George Richmond RA: 1809–1896)は高名な肖像画家で、祖父のトーマス・リッチモンド(Thomas Richmond: 1771-1837)はミニアチュール画家で、祖父と同名の叔父(Thomas Richmond: 1802-1874)も肖像画家として知られていた。
14歳でロイヤル・アカデミー・オブ・アーツの美術学校に入学し3年間学んだ[2]。ジョン・ラスキン(1819-1900)の個人指導も受け、1859年に自分の絵が売れた資金で数週間、ラスキンとローマに旅し、イタリアの巨匠たちの作品を研究した[3]。ミケランジェロやティントレット、ジョット・ディ・ボンドーネといった画家の作品から影響を受けたとされる[3][4]。
1864年に最初の結婚をするが翌年妻が亡くなり、再びローマに旅し、3年から4年間ローマに滞在した。1867年に再婚しイタリアやアルジェリアで暮らし、1870年にイギリスに戻った。1879年から1883年の間はオックスフォード大学の美術の教授職も務めた。
イギリスで肖像画家などとして成功し、1888年ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツの準会員に選ばれた。
経済的にも成功したことで、新たな分野に取り組むようになり、大きなサイズの寓意画に取り組み、ステンドグラスやモザイクのデザインを始めた。
1891年から、セント・ポール大聖堂の内部装飾に着手し、1904年まで、職人たちとともにステンドグラスやモザイク装飾を制作した.[5]。
1895年にロイヤル・アカデミー・オブ・アーツの正会員に選ばれた[2]。1895年にバス勲章を受勲し、1897年にナイトの称号を得た。1899年から1901年まで、王立バーミンガム芸術家協会の会長も務めた。
1921年にロンドン西部のハマースミスで亡くなった。
子供のうちハーバート・ウィリアム・リッチモンド(Herbert William Richmond: 1871-1946)は有名な海軍将校になり、アーネスト・テータム・リッチモンド(Ernest Tatham Richmond: 1874-1955)は建築家として知られている。
作品
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第4代ソールズベリー侯爵の肖像画 (1882)
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Ethel Bertha Harrison(女性運動家)
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ウィリアム・ホルマン・ハント(画家)
ナショナル・ポートレート・ギャラリー -
肖像画
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ジャンヌ・ダルク」
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ロンドン、Holy Trinity Churcのステンドグラス
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彫刻作品
参考文献
[編集]- ^ “Richmond, Sir William Blake”. Suffolk Artists. 27 July 2018閲覧。
- ^ a b Chisholm, Hugh, ed. (1911). . Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 23 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 307.
- ^ a b Lascelles, Helen (1902). The life and work of Sir W.B. Richmond, K.C.B., R.A., D.C.L (1842–1921). London: Virtue Publishers
- ^ “Sir William Blake Richmond”. A Victorian.com. 25 July 2018閲覧。
- ^ “Mosaics in the quire”. St. Paul's Cathedral. 25 July 2018閲覧。