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イワン・チスチャコフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
1943年

イワン・ミハイロヴィチ・チスチャコフロシア語: Иван Михайлович Чистяков1900年9月14日 - 1979年3月7日)は、ソ連軍人。大将。ソ連邦英雄。オトルブニヴォ村(現カリーニン州カシンスキー地区)出身。

経歴

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1918年から赤軍に入隊し、兵卒としてロシア内戦に従軍した。内戦終結後、小隊長、中隊長、大隊長、狙撃連隊長補佐、狙撃師団参謀部第1班長を歴任した。1920年、機関銃学校を卒業。1926年から共産党員。1927年、「ヴイストレル」課程、1930年、高等アカデミーを卒業。1936年、狙撃連隊長、1937年、狙撃軍団長補佐、1940年、ウラジオストク歩兵学校長、1941年、狙撃軍団長。

独ソ戦時、第64独立海軍歩兵旅団、第8親衛狙撃師団、第2親衛狙撃軍団を指揮。1942年10月から、第21軍(1943年4月から第6親衛軍)司令官。チスチャコフ指揮下の部隊は、モスクワの戦いスターリングラードの戦いクルスクの戦い、白ロシア、シャウリャイ、リガ、メーメル作戦、クールランド軍集団の撃滅に参加した。

ドイツ降伏後の1945年、極東において第1極東戦線隷下の第25軍を指揮し、ソ連対日参戦に参加。当初は満州と朝鮮の交通を断ち、日本軍の退路を封じる予定であったが、日本の降伏宣言による戦況の変化により朝鮮半島に進撃した。キリル・メレツコフの命令を受け、8月24日には占領した満州の延吉から飛行機で咸興府に到達し、櫛淵鍹一第34軍司令官と日本軍の武装解除に関する協定を結び、岸勇一咸鏡南道知事らに対し行政権の接収を通告した。8月26日には飛行機で平壌に到達し、平安南道庁舎にソ連軍第25軍団司令部を設置し、古川兼秀知事や曺晩植ら共産主義者に対し、行政権の接収を通告した。9月初めには38度線に到達し、そのまま北朝鮮地区の占領行政を担った。1947年3月5日に占領軍司令官を辞任。

第5軍の降伏式に参加した際のイワン・チスチャコフ(写真右端)。写真中央に日本陸軍竹下義晴中将がいる。(1945年8月撮影)

その後、各職を経て、1949年に参謀本部軍事アカデミー附属高等学術課程を修了。1954年、ザカフカーズ軍管区第一副司令官。1957年、ソ連国防省監察総監部地上軍監察局主任監察官。1968年、退役。第2期、第4期ソ連最高会議代議員。

栄誉

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ソ連邦英雄(1944年7月22日)。レーニン勲章2個、赤旗勲章5個、1等スヴォーロフ勲章2個、1等クトゥーゾフ勲章2個、2等スヴォーロフ勲章を受章。

参考文献

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  • 桜井浩編『解放と革命 朝鮮民主主義人民共和国の成立過程』アジア経済研究所、1990年