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イズマイール

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
イズマイール
Ізмаїл
かつてあったイズマイール要塞の一部
かつてあったイズマイール要塞の一部
イズマイールの市章
市章
位置
イズマイールの位置の位置図
イズマイールの位置
位置
イズマイールの位置(ウクライナ内)
イズマイール
イズマイール
イズマイール (ウクライナ)
イズマイールの位置(オデッサ州内)
イズマイール
イズマイール
イズマイール (オデッサ州)
座標 : 北緯45度21分06秒 東経28度50分11秒 / 北緯45.35167度 東経28.83639度 / 45.35167; 28.83639
行政
 ウクライナ
  オデッサ州の旗 オデッサ州
 市 イズマイール
市長 Heorhi Dubenko
地理
面積  
  市域 53 km2
標高 31 m
人口
人口 (2004年現在)
  市域 85,098人
    人口密度   1,605人/km2
その他
等時帯 東ヨーロッパ時間 (UTC+2)
夏時間 東ヨーロッパ夏時間 (UTC+3)
郵便番号 68633
市外局番 +380 4841
公式ウェブサイト : http://www.izmail.com.ua/

イズマイールウクライナ語: Ізмаїл [izmɑˈjil/イズマイィール];ウクライナ語ラテン文字表記の例: Izmayilロシア語及びブルガリア語: Измаил;ロシア語ラテン文字表記の例:Izmailルーマニア語: Ismailトルコ語: İşmasılHacidarIsmail)は、ウクライナオデッサ州都市ドナウ川に近い歴史ある都市である。

イズマイールは、ドナウ・デルタ最大のウクライナの港である。食品加工業の中心であり、人気のある観光地でもある。また、ウクライナ海軍と、ウクライナ国家国境庁沿岸警備隊の基地がある。WWFが運営する自然公園が近接している。

現在の人口はおよそ85,000人と概算される。そのうちロシア系住民が43.7%で、ウクライナ人が38%、ベッサラビア・ブルガリア人が10%、モルドバ人が4.3%である。

歴史

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イズマイールの要塞は、12世紀ジェノヴァ共和国の商人らによって建設された。14世紀に短期間だけイズマイールはワラキアに属した。ドナウ北岸領土がバサラブ家(en:House of Basarab、ワラキア公を輩出した)の所領となったのである(バサラブという名が、ベッサラビアの由来となった)。町は最初、オスマン帝国の大宰相(en:Grand Vizier)から派生したシュミル(Şmil)であった。オスマン語の特徴であるiが付け足されている。

14世紀終わりから、イズマイールはモルダヴィア支配下に入った。1484年、オスマン帝国がワラキア、モルダヴィアを攻め、黒海に近い部分を軍直轄領(1538年まで直接支配)とした。この時から16世紀初めまで、ブジャク地方にオスマン帝国の要塞が築かれた。1569年スルタンセリム2世が、自身に従属するノガイ人(北カフカース出身)を定住させた。

1770年ロシア帝国の将軍ニコライ・レプニーンen:Nicholas Repnin)がイズマイール要塞を攻略後、2度と陥落しないようオスマン帝国により徹底して再強化された。スルタン自慢の要塞は難攻不落であるとされた。しかし露土戦争1787年-1792年)の最中、ロシア帝国軍司令官アレクサンドル・スヴォーロフ1790年12月22日に急襲した。要塞内部に立てこもったオスマン帝国軍は、ロシアからの最後通牒を受けて、屈服した。この敗北はオスマン帝国の悲劇的結末であり、ロシア側はこの地で初めて国歌Grom pobedy, razdavaysya!を歌ったのである。

イズマイールの戦い

1791年、アレクサンドル・スヴォーロフはイズマイール陥落を女帝エカチェリーナ2世に報告した。イズマイールに住むムスリムたちは、女も子供も容赦なく、家から家、部屋から部屋へと強襲された。3日間の統制の効かない虐殺で、40,000人ともいうトルコ人が殺され、数百人が囚われの身となった。スヴォーロフは虚勢をはり、のちにイギリス人旅行者に対し、『虐殺が起こったとき、私は自分のテントへ行ってむせび泣いた。』と語った[1]

戦後、イズマイールはオスマン帝国へ返還されたが、ロシア軍は1809年9月14日に取り戻した。1812年ブカレスト条約でベッサラビアとともにイズマイールはロシア帝国に併合された。町はそれから再建された。大聖堂(1822年-1836年)、救世主降誕教会(1823年)、聖ニコライ教会(1833年)など、多くの建物がこの時代に建てられた。イズマイール最古の建物は、小さなモスクで、15世紀か16世紀に建てられた。モスクは1810年に教会に変えられ、現在は1790年のイズマイール急襲を記念する博物館となっている。

大聖堂

ロシアがクリミア戦争で敗退すると、町はモルダヴィア公国に併合され、すぐ後にドナウ公国(モルダヴィア=ワラキア合同公国)の支配下に入った。ロシアは露土戦争1877年-1878年)の後にイズマイールの支配を取り戻した。1918年にロシア帝国が崩壊した時には、ルーマニア軍に一時占領された。1918年から1940年まで、イズマイールはベッサラビアとともに、ルーマニア王国の一部であった。

第二次世界大戦中の1940年、再びイズマイールはソビエト連邦赤軍に占領され、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国に併合された。しかし、イズマイール周辺地域は、バルバロッサ作戦に派兵したルーマニア軍が1941年から支配した。1944年に奪回された後、ソ連時代には多くのロシア人とウクライナ人がイズマイールに移住し、次第に民族構成が変化していった[2]。イズマイール州は1940年につくられ、1954年にオデッサ州と合併するまで、州都はイズマイールにあった。1991年8月24日から、イズマイールは独立したウクライナの一部となっている。

2023年8月1日ロシアのウクライナ侵攻の過程で、港の施設がロシアの無人機により攻撃を受けた[3]

出身者

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参照

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  1. ^ J. Goodwin, Lords of the Horizons, p. 244, 1998, Henry Holt and Company, ISBN 0-8050-6342-0
  2. ^ 1930年のイズマイール人口のうち、20%がモルダヴィア人、59.3%がロシア人、6%がウクライナ人、また14.5%の少数民族がいた
  3. ^ ロシア軍、ドナウ河川港を「意図的」な標的に”. CNN (2023年8月3日). 2023年8月5日閲覧。

外部リンク

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座標: 北緯45度21分06秒 東経28度50分11秒 / 北緯45.35167度 東経28.83639度 / 45.35167; 28.83639