アーニー・パーカー
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基本情報 | ||||
フルネーム | Ernest Frederick Parker | |||
国籍 | オーストラリア | |||
出身地 | 同・パース | |||
生年月日 | 1883年11月5日 | |||
没年月日 | 1918年5月2日(34歳没) | |||
死没地 | フランス・カエストル | |||
利き手 | 右 | |||
バックハンド | 片手打ち | |||
4大大会最高成績・シングルス | ||||
全豪 | 優勝(1913) | |||
優勝回数 | 1(豪1) | |||
4大大会最高成績・ダブルス | ||||
全豪 | 優勝(1909・13) | |||
優勝回数 | 2(豪2) | |||
アーニー・パーカー(Ernie Parker, 1883年11月5日 - 1918年5月2日[注 1])は、オーストラリア・パース出身の男子テニス選手。本名はアーネスト・フレデリック・パーカー(Ernest Frederick Parker)といい、アーニーは愛称である。1913年の全豪選手権(現在の全豪オープンテニス)男子シングルス優勝者で、男子ダブルスでは1909年・1913年に2勝を挙げたが、第1次世界大戦で戦死した。彼は比較的小柄な体格であったが、テニスのみならず、クリケットやゴルフでも優れた技量を備えていた。
来歴
[編集]現在は「全豪オープン」として知られるテニス競技大会は、1905年に男子シングルス・男子ダブルスの2部門のみで始まった。最初期の大会名称は「オーストラレーシアン選手権」(Australasian Championships)と呼ばれ、開催都市も毎年回り持ちで異なっていた。パーカーは1909年と1913年の2度、故郷のパースで開催された「オーストラレーシアン選手権」に参加し、2度とも男子シングルス・男子ダブルスの決勝戦に進出した。1909年の大会では、パーカーは男子シングルス決勝でニュージーランドのアンソニー・ワイルディングに 1-6, 5-7, 2-6 で敗れたが、J・P・キーンと組んだ男子ダブルスで優勝し、ワイルディングとトム・クルックスの組を 1-6, 6-1, 6-1, 9-7 で倒した。
1913年のパース開催大会で単複2冠を獲得した。男子シングルス決勝の対戦相手は、当時40歳を迎えていたニュージーランド人選手のハリー・パーカーであった。“2人のパーカー”による決勝対決は、パース出身のアーネストが 2-6, 6-1, 6-3, 6-2 で勝ち、2度目の挑戦で初優勝を決めた。E・パーカーは2度目の男子ダブルスでアルフ・ヘデマンとペアを組み、決勝でH・パーカーとロイ・テーラーの組を 8-6, 4-6, 6-4, 6-4 で破った。1913年オーストラレーシアン選手権の“パーカー対決”は、単複ともアーネストの勝利で終わった。
第1次世界大戦が始まり、アーネスト・パーカーもオーストラリア陸軍に出願したが、弱視のため2度入隊を拒否されたという。3度目の志願で陸軍入隊を認められ、砲兵として働いたが、終戦の半年前にあたる1918年5月2日にフランスで敵軍の弾に倒れ、34歳で戦死した。
全豪選手権の成績
[編集]- 男子シングルス:1勝(1913年) [準優勝1度:1909年]
- 男子ダブルス:2勝(1909年・1913年)
注釈
[編集]参考文献
[編集]- Bud Collins, “Total Tennis: The Ultimate Tennis Encyclopedia” Sport Classic Books, Toronto (2003 Ed.) ISBN 0-9731443-4-3 パーカーの経歴と生没年月日が分かるようになったのは、このコリンズ百科事典の第4版による。
- Joseph Johnson, “Grand Slam Australia: The Story of the Australian Open Tennis Championships” Country Books, Newport, Victoria, Australia (1985) ISBN 0-9590084-0-3 全豪オープン男女シングルス歴代優勝者の評伝。本書48-50ページに「アーニー・パーカー」の章があり、戦死の日付も「1918年5月2日」と明示されている。
外部リンク
[編集]- アーニー・パーカーの紹介 (提供:Grand Slam Tennis Archive)
- Cricinfo (クリケット情報サイト)