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アン・ヘイドン=ジョーンズ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アン・ヘイドン=ジョーンズ
Ann Haydon-Jones
1969年、イギリスの「今年のスポーツ選手」に選ばれて
基本情報
フルネーム Adrianne Shirley Haydon Jones
国籍 イギリスの旗 イギリス
出身地 イングランドの旗 イングランドバーミンガム
生年月日 (1938-10-07) 1938年10月7日(86歳)
体重 67.5 キログラム
利き手
殿堂入り 1985年
生涯獲得賞金 値なし
4大大会最高成績・シングルス
全豪 ベスト4(1969)
全仏 優勝(1961・66)
全英 優勝(1969)
全米 準優勝(1961・67)
優勝回数 3(仏2・英1)
4大大会最高成績・ダブルス
全豪 ベスト4(1969)
全仏 優勝(1963・68・69)
全英 準優勝(1968)
全米 準優勝(1960)
優勝回数 3(仏3)
4大大会最高成績・混合ダブルス
全豪 準優勝(1969)
全仏 準優勝(1960・66・67)
全英 優勝(1969)
全米 ベスト4(1965)
優勝回数 1(英1)

アン・ヘイドン=ジョーンズ(Ann Haydon-Jones、1938年10月7日 - )は、イングランドバーミンガム出身の女子テニス選手。フルネームはアドリアン・シャーリー・ヘイドン=ジョーンズ(Adrianne Shirley Haydon-Jones)。

1960年代の女子テニス界を代表した選手の1人で、テニス史上最大の転換点である「オープン化時代」にプロ選手となり、アマチュア選手・プロ選手の両方の立場で顕著な成績を残した。アマチュア選手時代には「全仏選手権」で女子シングルス2勝を挙げ、プロ選手になってからは1969年ウィンブルドン選手権で優勝した。左利きの選手。

旧姓「アン・ヘイドン」の名前であったが、1962年P・F・ジョーンズと結婚した。

来歴

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アン・ヘイドンは両親とも優れた卓球選手という家庭に生まれ、少女時代は卓球のジュニア世界選手権で5度の決勝進出があった。また1954年から1959年まで世界卓球選手権に5回出場し1957年のストックホルム大会ではシングルス、ダブルス、混合ダブルスで準優勝を果たした。1954年1955年にテニスの「全英ジュニア選手権」に連覇したことがきっかけで、彼女はテニス選手として生活を始め、1956年からウィンブルドン選手権に出場し始めた。それから5年後、1961年全仏選手権で彼女は初めての栄冠を獲得し、決勝でメキシコヨラ・ラミレスを 6-2, 6-1 のストレートで圧倒した。この年は全米選手権でも決勝に進んだが、ここではダーリーン・ハードに 3-6, 4-6 で敗れて準優勝になる。全仏初優勝の翌年、アン・ヘイドンはP・F・ジョーンズと結婚した。彼女の名前は、夫の姓のみで「アン・ジョーンズ」と記載されたり、旧姓を併記した「アン・ヘイドン=ジョーンズ」とも呼ばれるようになった。

1963年、ヘイドン=ジョーンズは全仏選手権で女子シングルス・女子ダブルスの2部門に決勝進出を果たす。2年ぶり2度目のシングルス決勝戦では、ヘイドン=ジョーンズはレスリー・ターナーに 6-2, 3-6, 5-7 で敗れた。1966年全仏選手権で、ヘイドン=ジョーンズはナンシー・リッチーを 6-3, 6-1 で破り、5年ぶり2度目の優勝を果たす。地元のウィンブルドン選手権では、1958年1960年1962年1963年1966年と5度にわたり、準決勝まで勝ち進んでいたが、なかなか決勝戦に手が届かなかった。1967年、ヘイドン=ジョーンズはようやく初めてのウィンブルドン決勝と、6年ぶり2度目の全米選手権決勝に進んだ。この年はビリー・ジーン・キング夫人が絶好調で、ヘイドン=ジョーンズはキング夫人に決勝2連敗を喫する。全米選手権では2度のシングルス準優勝に終わり、ここではタイトルを獲得できなかった。

1968年にテニス界は史上最大の転換期を迎え、プロ選手の4大大会出場を解禁する「オープン化」という措置を実施した。大会の名称も変更されて、全豪オープン全仏オープンウィンブルドン選手権全米オープンとなる。こうして、それ以前の時代とは明確に区別されるテニス界の「オープン化時代」(Open Era)が始まった。アン・ヘイドン=ジョーンズ、ビリー・ジーン・キング夫人、ロージー・カザルス、そしてフランソワーズ・デュールフランス)の4人の女子選手が、「オープン化時代」以後最初に「プロテニス選手契約書」にサインした。こうして、テニス界にもプロ化の流れが始まる。「オープン化時代」最初の4大大会となった1968年の「全仏オープン」で、ヘイドン=ジョーンズは単複とも決勝に進出するが、女子シングルス決勝では(2年前に勝った)ナンシー・リッチーに 7-5, 4-6, 1-6 で敗れ、フランソワーズ・デュールと組んだダブルスで優勝した。この後、ジョーンズは「オープン開催」の1968年ウィンブルドン全米オープンと、1969年全豪オープンの3大会連続で女子シングルス4強に入った。全豪オープンは、これが唯一の出場となる。1969年全仏オープンでは、デュールとのダブルスで2連覇を達成するが、シングルス決勝ではマーガレット・コート夫人に 1-6, 6-4, 3-6 で敗れた。ヘイドン・ジョーンズの全仏選手権(全仏オープン)の経歴を通じて、単複2部門の決勝に進出した1963年1968年1969年はいずれもシングルス準優勝・ダブルス優勝という結果に終わった。

1969年ウィンブルドンは、アン・ヘイドン・ジョーンズのテニス経歴最大のハイライトであった。第4シードのジョーンズは、準決勝でマーガレット・コート夫人の4大大会年間3連勝を阻み、決勝では大会3連覇中だったビリー・ジーン・キング夫人と対戦した。ヘイドン=ジョーンズはキング夫人に 3-6, 6-3, 6-2 の逆転勝利を収め、キング夫人のウィンブルドン4連覇を阻止した。こうしてヘイドン=ジョーンズは、左利きの女子選手として最初のウィンブルドン優勝者になり、大会初出場の1956年から「14度目」の挑戦で優勝を決めた。この大会ではフレッド・ストールと組んだ混合ダブルスでも優勝し、2部門制覇を飾る。ウィンブルドン優勝の後、ヘイドン=ジョーンズは第1シードだった全米オープンの出場を辞退し、翌1970年に現役を引退した。1985年国際テニス殿堂入りを果たしている。

4大大会優勝

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  • 全仏選手権 女子シングルス:2勝(1961年・1966年)/女子ダブルス:3勝(1963年・1968年・1969年) [女子シングルス準優勝3度:1963年・1968年・1969年]
  • ウィンブルドン選手権 女子シングルス:1勝(1969年)/混合ダブルス:1勝(1969年) [女子シングルス準優勝1度:1967年]
全米選手権女子シングルス準優勝2度:1961年・1967年)

外部リンク

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