アンドレア・カルネヴァーレ
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名前 | ||||||
カタカナ | アンドレア・カルネヴァーレ | |||||
ラテン文字 | Andrea Carnevale | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | イタリア | |||||
生年月日 | 1961年1月12日(63歳) | |||||
出身地 | モンテ・サン・ビアージョ | |||||
身長 | 184cm | |||||
体重 | 78kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
代表歴 | ||||||
1988-1990 | イタリア | 10 | (2) | |||
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
アンドレア・カルネヴァーレ(Andrea Carnevale、1961年1月12日 - )は、イタリア出身の元同国代表の元サッカー選手。センターフォワードや左ウイングとしてプレーした[1]。
経歴
[編集]1978年にセリエCのラティーナでキャリアをスタート。1984年にセリエAのウディネーゼに移籍、ここでの活躍により評価を得ると、ユヴェントス、ACミラン、ASローマが獲得に名乗りを上げたが、1986年に強豪のSSCナポリへ移籍した[1]。ディエゴ・マラドーナ、ジョルダーノ、カルネバーレの3人はそれぞれの頭文字から取ってマジカ(Ma・Gi・Ca、魔法)トリオと呼ばれ[2]、1986-87シーズン、左ウイングとして起用されると、公式戦42試合で12ゴールを決め、クラブのセリエA初優勝、コッパ・イタリア優勝に貢献した[1]。1987-88シーズン、ベンチスタートになるなど、出場時間が減少し、監督との間に亀裂が生じることもあった[1]。1988-89シーズン、ジョルダーノがチームを去ると、カレッカとのパートナーとしてレギュラーに返り咲き、このシーズンの公式戦46試合で20得点を決めた[1]。1989-90シーズン、リーグ戦では31試合で8得点と、前年よりゴール数を減らしたが、優勝に重要な役割を果たし、2度目のリーグ制覇[1]。
1988年のソウル五輪では全試合に起用され、2得点をあげた[1][3]。イタリア代表には、1989年4月22日のウルグアイ戦でデビュー[1]。翌1990年のワールドカップ・イタリア大会ではジャンルカ・ビアリの相方として期待されたが結果を残せず、サルヴァトーレ・スキラッチの台頭により、グループリーグ第3戦以降は出番を失った[1]。大会後、ASローマへ移籍した。加入後順調にゴールを重ねていたが、1990年10月8日のバーリ戦後のドーピング検査で、アンジェロ・ペルッツィと共にドーピング違反となり、1年間の出場停止処分を受けた[1]。複帰後は、以前のようなプレーを見せれれないまま、1992-93シーズン終了後にローマを離れた[1]。
1995-96シーズン、ペスカーラ・カルチョでのプレーを最後に35歳で引退した[1]。
所属クラブ
[編集]- ラティーナFC 1978-1979
- USアヴェッリーノ 1979-1981
- ACレッジャーナ 1981-1983
- カリアリ・カルチョ 1983-1984
- カルチョ・カターニア 1983-1984
- ウディネーゼ・カルチョ 1984-1986
- SSCナポリ 1986-1990
- ASローマ 1990-1993
- ウディネーゼ・カルチョ 1993-1994
- ペスカーラ・カルチョ 1993-1994
- ウディネーゼ・カルチョ 1994-1995
- ペスカーラ・カルチョ 1995-1996
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l “Andrea Carnevale, il calcio come riscatto: drammi, goal, cadute e trionfi”. GOAL (2022年1月12日). 2023年8月18日閲覧。
- ^ “Napoli, retroscena dello scudetto: Maradona svela l'insolita trattativa per convincere Bruno Giordano”. storiemaledette.com (2018年9月1日). 2020年8月17日閲覧。
- ^ “Andrea Carnevale”. Transfermarkt. 2023年8月18日閲覧。