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アルモディス・ド・ラ・マルシュ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アルモディス・ド・ラ・マルシュ
Almodis de la Marche
ラモン・バランゲー1世と妻アルモディス。1067年にカルカッソンヌの代償としてサルダーニャ伯ラモンと妻アデライードに支払うための金貨2,000オンスを数えている[1]

出生 1020年
死去 1071年10月16日
配偶者 ユーグ5世・ド・リュジニャン
  トゥールーズ伯ポンス
  バルセロナ伯ラモン・バランゲー1世
子女 ユーグ6世
ジョルダン
メリザンド
ギヨーム4世
レーモン4世
ユーグ
アルモディス
バランゲー・ラモン2世
ラモン・バランゲー2世
イネス
サンチャ
父親 ラ・マルシュ伯ベルナール1世
母親 アメリー
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バルセロナ大聖堂にあるラモン・バランゲー1世と妻アルモディスの墓所

アルモディス・ド・ラ・マルシュ(Almodis de la Marche, 1020年頃 - 1071年10月16日)は、中世フランスおよびスペインイベリア半島)の貴族の女性。ラ・マルシュ伯ベルナール1世とその妻アメリーの娘。

生涯

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アルモディスは1038年頃、ユーグ5世・ド・リュジニャンと結婚し、息子2人と娘1人をもうけた。

  • ユーグ6世・ド・リュジニャン(1039年頃 - 1101年)
  • ジョルダン・ド・リュジニャン
  • メリザンド(1055年以前 - ?) - 1074年以前にパルトネー子爵(Vidame)シモン1世"大司教"と結婚

アルモディスとユーグは近親婚を理由に離婚し、1040年にユーグはアルモディスをトゥールーズ伯ポンスと結婚させた。ポンスとの間に以下の子女をもうけた。

  • ギヨーム4世(1040年頃 - 1094年) - トゥールーズ伯(1061年 - 1094年)
  • レーモン4世(1052年頃 - 1105年) - トゥールーズ伯(1094年 - 1105年)
  • ユーグ - サン=ジル修道院長
  • アルモディス - メルグイユ伯ピエールと結婚

1053年4月にはアルモディスはポンスの妻であったが、その後まもなくアルモディスはバルセロナ伯ラモン・バランゲー1世に誘拐された。ラモン・バランゲー1世は、同盟者トゥルトーザのムスリムのエミールにより送られた艦隊を使って、アルモディスをナルボンヌから誘拐した。夫ポンスが生存しているにもかかわらず2人はすぐに結婚し、翌年に双子の息子をもうけた。教皇ウィクトル2世は、この違法な結婚のためアルモディスとラモンを1056年まで破門した。2人の間には4人の子が生まれた。

アルモディスは前夫や多くの子供たちと連絡を取り続け、1066年もしくは1067年には娘の結婚式のためにトゥールーズに旅をしている。それより前の1060年に、最初の夫ユーグ5世はアルモディスの息子トゥールーズ伯ギヨーム4世の助けによりアキテーヌ公ギヨーム8世に対して反乱を起こした。アルモディスの息子たちは軍事面で互いに協力し合い、ユーグ6世、レーモン4世、バランゲー・ラモン2世はみな十字軍に参加した。

3番目の夫ラモンは最初にアルモディスの姉妹Rangeardeの娘イサベル・トランカヴェルと結婚しており、イサベルとの間にできた息子ペレ=ラモンがラモンのもともとの継嗣であった。ペレ=ラモンはアルモディスの影響力を快く思わず、アルモディスが自らの双子の息子をペレ=ラモンに替えて継嗣とするのではないかと憂慮していた。1071年10月、ペレ=ラモンはアルモディスを殺害し、その結果、継嗣から外され国外追放となった。父ラモン・バランゲー1世が1076年に死去した際に、バルセロナは双子の息子バランゲー・ラモンとラモン・バランゲーとの間で分割された。その後、バランゲー・ラモンは兄弟ラモン・バランゲーを殺害し、「兄弟殺し伯」と呼ばれた。

脚注

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  1. ^ Charles Julian Bishko (1968–9), "Fernando I and the Origins of the Leonese-Castilian Alliance with Cluny," Studies in Medieval Spanish Frontier History (Variorum Reprints), 40.

参考文献

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  • Chronicles of the abbey of St. Maixent (pub. 1886 by A. Richard)
  • Reilly, B. F. The Conquest of Christian and Muslim Spain, 1992