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アメリカ海軍日本語学校

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

アメリカ海軍日本語学校(アメリカかいぐんにほんごがっこう、英語: U.S. Navy Japanese Language School、略称:JLS)は、第二次世界大戦期にアメリカ合衆国海軍で設立された、太平洋戦線における対日心理戦要員を養成する為の軍学校

概要

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発足までの経緯

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米海軍では、日露戦争日本が勝利したことで、1910年~1940年にかけて日本語能力を持った士官養成のために、毎年2名ほどの海軍兵学校卒業生を、東京長沼直兄の下、日本語と日本の文化歴史を、3年間学ばせるべく送り出していた。しかし、日米関係の悪化に伴い、当時国内の非日系人で、日本語の翻訳・通訳が出来る人間は、推計100人にも満たなかったという現状が、憂慮されるようになった。これに伴い、通訳士官英語版を養成するための、実践的な日本語教育コースの設置が、喫緊の課題に挙げられることとなった[1]

そうした中、海軍における日本研究の第一人者として知られていたアルバート・E・ヒンドマーシュ中佐 (Cmdr. Albert E. Hindmarsh) は、1941年8月1日より日本語教育のための言語センターを、カリフォルニア大学バークレー校(UCB)とハーバード大学に設置する取り組みを始めた。ヒンドマーシュは、大学側と交渉を進める傍ら、東京の駐日大使館より、長沼が手掛けた『標準日本語讀本』を、50セット取り寄せたうえで、1年に及ぶ集中教育コースを練り上げた[2]

また、「長沼メソッド」を忠実に実行すべく、講師にはアメリカ人の日本語学者ではなく、ワシントン大学日本語科教授の巽ヘンリー三郎や、UCB日本語講師の中村進といった帰米2世のほか、大阪府堺市出身の真宗大谷派僧侶でUCB教授の足利演正など、ネイティブの日本語話者11名を採用した[3]

第1期生となる学生48名は、グレン・W・ショー[注釈 1]が全米から日本や中国で生まれた宣教師の子弟や、日本語を勉強している者など、日本文化に馴染みのある関係者を集めた。

こうして、1941年11月1日にJLSが、上述した2校のキャンパスで設立された。しかし、翌1942年に西海岸で日系人の強制収容が実施されたことに伴い、同年6月23日に2校を統合する形で、コロラド大学ボルダー校へ移転することとなった[2]

学校生活

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しかし、僅か48名の1期生のみでは、当然必要な人員を満たせない、という問題が浮上した。そこで、海軍は全米の大学生の中でも、最優秀成績者で組織される団体である「ファイ・ベータ・カッパ」より、学生を募集した[4]

このことが功を奏し、翌1942年2月までにJLSの生徒は90名にまで増加[注釈 2]。ネイティブの日本語講師も、増やす必要が生じた。ヒンドマーシュは、強制収容所で発行されるフリーペーパーに一般広告を掲載し、医師・弁護士・教師といった専門職の資格を持ち、尚且日本語に堪能な人物を、JLSの講師として募集した[注釈 3]。結果として、コロラド州へ移転した直後の1942年7月1日からは、新入生153名に加え、ワシントン大学政治学科を首席で卒業し、後にスタンフォード大学の日本・東アジア政治学教授となる池信隆英語版をはじめとする新任講師20名が、JLSのプログラムに加わることとなった。これに伴い、JLSの講師だけでなく、その家族もコロラド州へ移住することとなった。因みに、戦時中のコロラド州では、当時のラルフ・L・カー州知事が、日系人の受け入れに積極的だったことや、海軍や大学による地域社会への積極的な広報活動の甲斐もあり、終戦までに同州内で反日的な動向が見られたことは、殆ど無かったという[1][5]

JLSでの日本語学習は、苛酷を極めた。とある卒業生は、

「それは、まさに特訓以外の何物でもなかった。1日の授業は読解が2時間、会話と書き取りが1時間ずつだった。1時間の授業につき、最低3時間の予習・復習を要求されたため、学生達は1日中、机に向かわなければならなかった。毎週土曜日には、4時間の試験が行われ、月曜日にはその成績が張り出された。教師は、ほぼ1ヶ月ごとに交替した。それは、様々なタイプの日本語に慣れさせる為だった」

「授業はまるで、先生からバケツの水を浴びせ掛けられているようだった。溢れた水は、覚えられなかった言葉だ。2時間程ずっと解らなかったのに、解ったような顔をして頷いたこともあった。あまりに難しすぎて、頭がおかしくなった学生もいた。4ヶ月に1度の休暇は、それこそダウンした学生が、病院に行く為にあるようなものだった。精神に異常をきたした某学生は、自分をイエス・キリストと思い込むようになり、結局退学させられたそうだ。彼に『お前の名前は?』と聞くと、日本語の発音で『イエス・キリスト[注釈 4]』と答えたという。全米トップレベルの優秀な学生達が、神経症になる程の詰め込み教育だった訳だ」

と回想している[6]。こうした事態が多発したこともあり、当初は1年だったJLSにおける教育期間は、後に1年半へ延長されることとなった。

一方で、草書体で書かれた日本各地の民話の本の購読などを通して、JLSの生徒達は、反日感情英語版が吹き荒れる自国の風潮の中にあって、日本・日本人大和民族)・日本の文化だけでなく、それらを教授する日系人講師に対しても、深い畏敬の念を抱くようになった。講師達も、教え子達の学習に対する真摯な姿勢に感銘を受け、双方の絆はより深まった。時には、講師が教え子達を自宅に招いて、パーティーを催すこともあった。その場では、プレゼント交換だけでなく、同じコロラド州内にあるアマチ収容所から調達した、僅かな漬物豆腐日本酒といった日本食を、参加者全員で分け合うこともあった。このような取り組みを通して、生徒達は今学んでいることが、実際の日本における伝統的な家庭・社会生活の中で、どのように応用出来るかを、直に目の当たりすることが叶った[3]

卒業生達による活躍

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約1,200人にも及ぶ「ボルダー・ボーイズ(Boulder Boys)」と呼ばれるJLSの卒業生達は、海軍・海兵隊へ配属され、

  • 日本による無線通信の傍受・解読・翻訳
  • 捕獲した日本軍の文書の翻訳
  • 潜伏する日本軍部隊・民間人への自殺の思い止まり・投降の呼び掛け・飢餓からの救済
  • 日本人捕虜への尋問
  • 日本への捕虜送還の手配

などに各地で従事。終戦後の日本では、GHQの一員として復興事業に携わった[5]

他にも、兵士個人の発案が通ったことによる功績としては、

  • 戦闘で負傷した日本人捕虜の為の診療所を創設
  • 日本人の教師と生徒で構成される国民学校の開校
  • 日本本土空襲にあたって、爆撃の予告と避難を促す旨のビラの散布

などが挙げられる。

海軍・海兵隊の通訳士官による日本人の捕虜・民間人に対する態度は、日本の文化や社会に関する知識を根底にした、繊細で同情的なもので、日本人の感性にとっては、極めて効果的であったと評されている。双方は、終戦後も交友を温め続けたり、生涯を掛けて再会を果すことを試みた事例も、多くみられた。

日本が主権を回復した後も、卒業生達の多くは、戦中からの経験を糧とする形で、国務省職員として、日米関係の構築に寄与するようになった。中には、日本に定住したうえで、宣教活動や日本研究、日本文化の世界への紹介に携わるようになり、日本人女性との結婚や日本への帰化を選択した者もいた。因みに、『ディスカバー・ニッケイ』による聞き取りにおいても、回答した者の2/3以上から「JLSへの入学と同校での日系人講師との出会いが、人生における最大の転機となった」といった旨の証言が返ってきたという[3]

略年表[1][2]

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  • 1941年
    • 8月1日 - アルバート・E・ヒンドマーシュ海軍中佐が、UCBとハーバード大学に日本語訓練センターを設立する計画書を軍当局へ提出。承認を受ける。
    • 11月1日 - 48名の第1期生のうち、21名をUCB、27名をハーバード大学へ振り分ける形で開校。
  • 1942年
    • 6月23日 - 2校をコロラド大学ボルダー校のキャンパスへ統合・移転。
    • 10月 - 陸軍が、白人生徒[注釈 5]のみを対象とした日本語学校(Army Intensive Japanese Language School)を設立することを決定。同年11月に、同校をミシガン大学のキャンパスに置くことを決め、翌1943年1月5日より21名の講師と150名の第1期生により、授業が開始される。これ以降、陸海両軍の日本語学校による、優秀な生徒を獲得するための競争が激しくなる。
  • 1943年
    • 7月21日 - 女子生徒の第1期生88名が入学。
    • 10月12日 - イギリス海軍からの留学生が到着。
  • 1944年1月 - 校名を「アメリカ海軍東洋語学学校(U.S. Navy School of Oriental Languages)」へ変更。北京語マレー語ロシア語の授業が開始される。
  • 1945年6月 - 日本語部門のみ語学学校を、オクラホマ州立大学に設立。
  • 1946年6月23日 - 閉校。

著名な卒業生

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脚注

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注釈

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  1. ^ 1944年に、同校の校長となる。
  2. ^ これ以降、JLSのプログラムは
    1. 日本や中国に居住した経験を持つ者を対象にしたもの
    2. 「ファイ・ベータ・カッパ」より選出された者を対象にしたもの
    の2コースへ分離されることとなった。
  3. ^ 1946年までに採用された講師177名のうち、164名が日系人だった。
  4. ^ 英語で「イエス・キリスト」は、“Jesus Christ”(ジーザス・クライスト)の発音となる。
  5. ^ 日系人や日本への居住経験を持つ白人は、ミネソタ州の「陸軍情報部語学学校(Military Intelligence Service Language School)」で受け入れていた。
  6. ^ 夫・ウィリアムもJLSの卒業生である。

出典

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関連項目

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