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アミラル・シャルネ (装甲巡洋艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

アミラル・シャルネ(Amiral Charner)はフランス海軍装甲巡洋艦アミラル・シャルネ級。艦名になっているシャルネはクリミア戦争やアロー戦争に参加したフランスの提督である[1]

艦歴

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Arsenal de Rochefortで建造[2]。 1889年6月15日起工[2]。1893年3月18日進水[2]。1895年8月26日就役[2]。当初の艦名は「シャルネ(Charner)」であったが、1895年3月25日に「アミラル・シャルネ」に改名された[3]

就役後、「アミラル・シャルネ」は地中海艦隊に編入された[3]。1896年1月、「アミラル・シャルネ」は海上での参謀学校の課程であるÉcole supérieure de guerreに割り当てられた[4]。1897年から1898年の間、「アミラル・シャルネ」はCretan Revoltの際の国際部隊に加わっている[4]。1899年1月には「アミラル・シャルネ」は再びÉcole supérieure de guerreに割り当てられ、それから一時北方艦隊に移り、ブレストへ移動した[4]

1900年6月26日、「アミラル・シャルネ」はブレストを出発しサイゴンへ向かった[4]

1900年12月に長江で座礁したが損傷はなかった[4]。また、1901年4月には舟山群島で岩に衝突した[4]

義和団事件の際には「アミラル・シャルネ」は大沽へ派遣された[4]

「アミラル・シャルネ」は1901年10月2日にサイゴンを離れ、11月8日にトゥーロンに戻った[4]

1903年、「アミラル・シャルネ」は予備役となり、砲術学校に配された[4]。1910年5月に「アミラル・シャルネ」は再就役してクレタ島の警備艦となり、1912年7月までスダ湾に配備されていた[5]

第一次世界大戦

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1914年8月22日にモロッコ部隊(Division du Maroc)が編成された[6]。最初は防護巡洋艦2隻であったが、すぐに「アミラル・シャルネ」と装甲巡洋艦「Bruix」、「Latouche-Tréville」も加わった[6]。その任務は北アフリカ沿岸やジブラルタル・カサブランカ間での海上交通路保護であった[6]

11月5日のオスマン帝国との開戦後は地中海東部でオスマン帝国陸軍への補給阻止任務などに従事する[7]。11月29日、「アミラル・シャルネ」と防護巡洋艦「ダントルカストー」でシリア部隊(Division de Syrie)が編成され、2隻はアレクサンドリア・ヤッファ間を担当することになった[8][9]

1915年3月3日、「アミラル・シャルネ」はDedeagatch沖で座礁した[5]。敵の砲火を受ける中でのことであったが、イタリア戦の助けを借りて離礁に成功した[5]

5月18日からイタリア諸港沖でのドイツ船舶監視が行われ、リヴォルノ沖には「アミラル・シャルネ」が配された[7]。監視活動はイタリアが引き継ぐこととなった6月6日まで行われた[7]

6月25日からフランスはシリア沿岸の封鎖を開始した[10]。封鎖範囲は4つに分けられ、南部の2区画は「アミラル・シャルネ」と「Jauréguiberry」、「D’Estrées」が担当した[10]

9月12-13日、「アミラル・シャルネ」はオスマン帝国側に追われていたアルメニア人の救出作戦に参加した[10]

11月8日時点では「アミラル・シャルネ」は第3艦隊(3e Escadre)に属している[11]

12月28日、「アミラル・シャルネ」と装甲巡洋艦「ジャンヌ・ダルク」はカステロリゾ島の占領を支援した[5]

1916年2月8日、「アミラル・シャルネ」はベイルート沖でドイツ潜水艦「U21」の雷撃を受け、沈没した[12]。427名中、生存者は1名のみであった[12]

要目

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  • 排水量:4756トン[13]
  • 長さ:全長110.00m、垂線間長106.00m[13]
  • 幅:水線幅13.98m[13]
  • 吃水:艦尾6.06m[13]
  • 機関:ベルヴィール式水管缶16基、水平3気筒3段膨張機関2基、2軸[14]
  • 速力:計画19ノット[13]
  • 装甲:装甲帯92mm、甲板40/50mm、司令塔92mm、19cmおよび14cm砲の砲塔92mm[14]
  • 兵装:45口径19cm(194mm)Modèle1887砲2門(単装)、45口径14cm(138.6mm)Modèle1887砲6門(単装)、50口径65mm Modèle1891砲4門(単装)、40口径47mm Modèle1885砲8門(単装)、37mm回転砲6門、450mm水上魚雷発射管4門、魚雷8本[15]

脚注

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  1. ^ John Jordan, Philippe Caresse, French Armoured Cruisers 1887–1932, p. 26
  2. ^ a b c d John Jordan, Philippe Caresse, French Armoured Cruisers 1887–1932, p. 25
  3. ^ a b Luc Feron, "The Armoured Cruisers of the Amiral Charner Class", p. 17
  4. ^ a b c d e f g h i Luc Feron, "The Armoured Cruisers of the Amiral Charner Class", p. 18
  5. ^ a b c d Luc Feron, "The Armoured Cruisers of the Amiral Charner Class", p. 19
  6. ^ a b c John Jordan, Philippe Caresse, French Armoured Cruisers 1887–1932, p. 227
  7. ^ a b c John Jordan, Philippe Caresse, French Armoured Cruisers 1887–1932, p. 233
  8. ^ John Jordan, Philippe Caresse, French Armoured Cruisers 1887–1932, p. 233. 本文にはこのように書かれているが、同ページの写真の説明文には12月に「ダントルカストー」は新編のシリア部隊に編入されたとあり、また「ダントルカストー」と「アミラル・シャルネ」が合流した場所も異なったことが書かれている。
  9. ^ John Jordan, Philippe Caresse, French Armoured Cruisers 1887–1932, pp. 233-234によればシリア部隊は1915年1月31日に第3艦隊(3e Escadre)となる。当初の所属艦は戦艦2隻と「ダントルカストー」となっており、「アミラル・シャルネ」がどうなったのかについての記載はない。
  10. ^ a b c John Jordan, Philippe Caresse, French Armoured Cruisers 1887–1932, p. 235
  11. ^ John Jordan, Philippe Caresse, French Armoured Cruisers 1887–1932, p. 236
  12. ^ a b John Jordan, Philippe Caresse, French Armoured Cruisers 1887–1932, p. 240
  13. ^ a b c d e John Jordan, Philippe Caresse, French Armoured Cruisers 1887–1932, p. 27
  14. ^ a b John Jordan, Philippe Caresse, French Armoured Cruisers 1887–1932, pp. 27, 30
  15. ^ John Jordan, Philippe Caresse, French Armoured Cruisers 1887–1932, p. 27. Norman Friedman, Naval Weapons of World War One, Part I: Guns, I/4: French Guns

参考文献

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  • John Jordan, Philippe Caresse, French Armoured Cruisers 1887–1932, Seaforth Publishing. 2019, ISBN 978-1-5267-4118-9
  • Luc Feron, "The Armoured Cruisers of the Amiral Charner Class", Warship 2014, Conway, 2014, ISBN 978-1-5911-4923-1, pp. 8-28
  • Norman Friedman, Naval Weapons of World War One: Guns, Torpedoes, Mines and ASW Weapons of All Nations, Seaforth Publishing, 2011