アニメポリス・ペロ
アニメポリス・ペロとは、1980年から2001年まで東映が全国展開で運営していたアニメショップである[1]。
大阪(梅田東映会館3階)、新宿(新宿東映地下1階)と福岡、札幌、名古屋、松山(松山国際ビル1階[2])、高知(高知東映2階)など東映系列の映画館に間借りする形で店舗が存在し、数々のアニメグッズを扱っていた[1]。利用者たちには、「アニメショップの元祖」や「アニメファンやマンガファンの聖地の一つ」とも評されていた[3][4]。
東映は、劇場版『宇宙戦艦ヤマト』のヒットに合わせて映画館で販売するアニメグッズをムービックに製造委託し、販売した。アニメポリス・ペロの商品が充実していったが、のちにムービックは自社ブランドのアニメショップとして「アニメイト」を全国展開した。
東映動画(現・東映アニメーション)関連のグッズは、他店よりも充実していた。
歴史
[編集]1972年6月に、当時の東映で社長だった岡田茂が映画会社で初めて事業部制を敷き[出典 1]、出版事業[11]、催事[13]、仮面ライダーのキャラクターグッズ販売[10]、サラ金[14]、ラーメン店[15]などの多角経営を進め[14][16]、映画部門以外の附帯事業から利益を出すよう社員に指示した[10][14]。この事業部が東映関西支社にも設立され、同支社の関連事業室によるアニメの関連商品の販売が、本ショップの始まりである[1]。
当初は品数が揃わず、宣伝部からもらい受けた使用済み台本や、劇場が放ったらかしにしていたポスターを集めて売っていた[1]。1975年10月には梅田東映会館の入口にプレイガイドを設置し、1976年には集客のためにジャンボ宝くじ売り場を設けたほか、1970年代後半のアニメーション映画の大ブームで松本零士や声優を迎えたイベントも成功したことから、当時の東映動画で社長を務めていた今田智憲の賛同を得て、1980年7月12日には同会館3階にテナント入店していた蕎麦屋「家族亭」が退店した跡に、大阪店を開店させた[1]。店名は、東映動画の劇場アニメ『長靴をはいた猫』に登場する猫の名前に由来しており、同社のシンボルキャラクターとしても用いられている[1]。
この大阪店については、ガイナックス取締役統括本部長の武田康廣がDAICON FILMのオープニングアニメーション制作に際して言及している[3]ほか、店舗自体についても漫画家の島本和彦が描いた自伝的漫画『アオイホノオ』に実名で登場している[注釈 1]。
店舗
[編集]全国展開され一部の東映系列の映画館では映画が始まる前に本ショップのCMが流れるなどしていたが、順次閉店していき、2001年3月の大阪店の閉店を最後に完全撤退した[1]。
- 直営店
- フランチャイズ
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g 東映株式会社総務部社史編纂 編『東映の軌跡』東映株式会社、2016年3月、288頁。
- ^ a b “君は「アニメポリス ペロ」を知っているか 伝説のアニメ店のPOPが砥部の古書店に復活”. 愛媛新聞ONLINE (愛媛新聞社). (2023年8月25日) 2024年5月9日閲覧。
- ^ a b “第7回「オープニングアニメ」”. GAINAX NET. ガイナックス (2014年9月23日). 2021年4月12日閲覧。
- ^ a b “第三話「アニメーターへの決定打」のひみつ”. ドラマ24「アオイホノオ」. テレビ東京 (2014年8月2日). 2021年4月12日閲覧。
- ^ 岡田茂「〈ドキュメント東映全史〉 1971-1972」『クロニクル東映 1947 - 1991』 2巻、東映、1992年、52頁。
- ^ “東映機構改革と大巾人事異動 本部制から事業部制への移行”. 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): p. 4. (1972年6月17日)
- ^ 「匿名座談会 ヘンシンを余儀なくされる映画産業の構造 ゴルフ場経営まで 総合レジャー産業に発展 儲かるものなら何でもの岡田方式 映像中心にあらゆる職種に進出」『映画時報』1972年11月号、映画時報社、7 - 9頁。
- ^ 「警戒警報の諸問題 安定ムードのなかの危機 邦画界の最新情報 岡田社長を先頭に年々業績が向上の"映画"の東映」『映画時報』1973年10月号、映画時報社、16頁。
- ^ 「東映にできた『何でもやる課』」『週刊新潮』1972年6月3日号、新潮社、13頁。
- ^ a b c 「警戒警報の諸問題 安定ムードのなかの危機 邦画界の最新情報 岡田社長を先頭に年々業績が向上の"映画"の東映」『映画時報』1973年10月号、映画時報社、16頁。
- ^ a b 岡田茂(代表取締役社長)・福中脩(国際部長代理)・布施建(教育映画部企画部長)・矢沢昭夫(人事部次長)・今井均(宣伝部宣伝課長代理)・青木洋一(コンピューター部課長代理)「―今月のことば― "東映NN計画"(東映全国事業網拡大計画)/東映NN計画 "おはようございます"社長」『社内報とうえい』1973年2月号 No.172、東映株式会社、2-11頁。
- ^ 渡邊亮徳 (取締役テレビ事業部兼テレビ企画営業部長、テレビ関連事業室長)・飯島敬(テレビ関連事業室課長)・泊懋(テレビ企画営業部次長)・渡辺洋一(テレビ企画営業部次長兼テレビ関連事業室次長)「テレビ事業部" もーれつでいこう"」『社内報とうえい』1973年2月号 No.172、東映株式会社、12-16頁。
- ^ a b “沿革”. 東映. 2019年1月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年2月18日閲覧。(“数字で見る東映”. 東映. 2019年7月11日閲覧。)
- ^ a b c 文化通信社編『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』ヤマハミュージックメディア、2012年、12-36,74-81頁頁。ISBN 978-4-636-88519-4。
- ^ 「NEWS MAKERS 東映が清純派路線をうちだした背景」『週刊ポスト』1973年8月17日号、小学館、44頁。
- ^ 竹入栄二郎「映画40年全記録」『キネマ旬報増刊』1986年2月13日号、キネマ旬報社、15頁。