アトラ・ハシース
アトラ・ハシースまたはアトラハシス / アトラ・ハーシス < Atra-Hasis > は、紀元前18世紀に3枚の粘土版にアッカド語で記された叙事詩(邦訳例『アトラ・ハシース神話』、或いは『アトラ・ハシース叙事詩』)の主人公[1]。いわゆる『大洪水伝説』に登場する、『旧約聖書』の「創世記」6章以降に収録されている『ノアの方舟』の主人公ノアに当たる人物[2]。
呼称
[編集]アトラ・ハシースはアッカド語で「賢き者[3]」「最高の賢者[2]」の意で新語系であり、元来はアトラム・ハシース < Atra-m-hasis > と呼ばれた[4]。『アトラ・ハシース叙事詩』以外にも各神話や伝承に名前を変えて登場するが、以下に示す者は基本的に同一人物として描かれる。
例として、『ギルガメシュ叙事詩』における彼は古バビロニア語のウタナピシュティム < Uta-napistiim >(「生命を見た者」の意[5])の変形名と解されたウトナピシュティム < Ut-napishtim >と述べられている他、シュメール語の大洪水伝説では「永遠の生命[6]」「永続する生命[5]」の意であるジウスドラまたはジウスドゥラ < Ziusu-dra >と呼ばれた。なお、ジウスドゥラについては近年、「ジウドスラ」と読むべきであるとの説が出されている[6]。
ヘレニズム時代にはベロッソス著ギリシア語版『バビロニア史』において、ジウスドゥラのギリシア語化であるクシストロスの名で伝わった[7]。
概要
[編集]- アッシリア版: アッシュールバニパルの図書館(ニネヴェ)から発見。
- ウガリットからアトラ・ハシース叙事詩の断片が発見。
- エンリルは、意地悪い、気まぐれな性格に描かれ、エンキは優しく助けになる性格と描かれる。
年表
[編集]- 1876年、ジョージ・スミスのThe Chaldean Account of Genesis[8]によって最初に翻訳。
- 1899年、Heinrich Zimmern により主人公の名前がAtra-Hasisとなる。
- 1991年、ステファニー・ダリー (Stephanie Dalley) は、アトラ・ハシースとギリシャ神話の洪水を起すデウカリオーンの父プロメーテウスとの名前の類似を指摘[9]。
- 1965年、W. G. Lambert と、A. R. Millard[10]は、古バビロニア版(紀元前1650年記述)を含む資料を発表[11]。
- 1992年、ヴァルター・ブルケルト[12]は、ホメロスの叙事詩『イリアス』との関連性を論じる。
あらすじ
[編集]上述の粘土板3枚について。
粘土版 1
[編集]アヌ(天)、エンリル(風)、エンキ(水)による宇宙の創造(創造神話 )
エンリルは、下位の神々に農業、治水を命じる[注 1]。40年後、下位の神々は反乱を起こす。エンキは、人間をつくって農業と治水を行わせることを提案。
母神ニンフルサグ(マミ)は、死んだ知恵の神ゲシュトウーエ (Geshtu-e) の肉と血を混ぜた粘土で人間をつくる[注 2]。神々は粘土につばを混ぜる。10か月後、人間が誕生。
粘土版 2
[編集]人間の過剰人口、エンリルは人口を減らすために飢餓と旱魃を1200年毎にもたらす。エンリルは、人間を破壊するために洪水を起すことを決める。
粘土版 3
[編集]ギルガメシュ叙事詩: 粘土版 11にて改めて記載。
エンキは、シュルッパクのアトラ・ハシースに、家を解体して船を造り、エンリルが起そうとしている洪水から避難する術を話す。アトラ・ハシースは、彼と彼の家族、動物と船に乗り扉を閉め避難。嵐と洪水が起こってから7日後、アトラ・ハシースは神々に生け贄を捧げる。エンリルは、エンキが計画を漏らしたことを咎めるも、エンキとエンリルは和解。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ The Akkadian determinative dingir, which is usually translated as “god” or “goddess” can also mean “priest” or “priestess”[13] although there are other Akkadian words (e.g. ēnu and ēntu) that are also translated priest and priestess. The noun “divine” would preserve the ambiguity in dingir.
- ^ On some tablets the under-god Weila or Aw-ilu, was slain for this purpose.
出典
[編集]- ^ Lambert & Millard (1999), pp. 8–15.
- ^ a b 矢島 (1982), p. 129.
- ^ 矢島 (1998), p. 128.
- ^ 月本 (1996), p. 148.
- ^ a b 月本 (1996), p. 106.
- ^ a b 岡田 & 小林 (2008), p. 52.
- ^ 岡田 & 小林 (2008), pp. 67–68.
- ^ Smith, George (1876). The Chaldean Account of Genesis. New York: Scribner, Armstrong & Co.. OCLC 670298366
- ^ Dalley, ed (1991). Myths from Mesopotamia. New York: Oxford University Press
- ^ Lambert; Millard (1965). Cuneiform Texts from Babylonian Tablets in the British Museum, London
- ^ Lambert; Millard (1969). Atrahasis: The Babylonian Story of the Flood. Oxford
- ^ Burkert (1992). The Orientalizing Revolution: Near Eastern Influence on Greek Culture in the Early Archaic Age. Harvard. pp. 88–91
- ^ Green, Margaret Whitney (1975) (PhD dissertation), Eridu in Sumerian Literature, University of Chicago, p. 224
参考文献
[編集]- Lambert, W. G.; Millard, A. R. (1999). Atrahasis: The Babylonian Story of the Flood. Eisenbrauns. ASIN 1575060396. ISBN 1-57506-039-6. NCID BA6132257X. OCLC 716717731
- Laessoe, Q. (1956). “The Atrahasis Epic, A Babylonian History of Mankind”. Biblioteca Orientalis 13: 90–102.
- Tigay, Jeffrey H. (1982). The Evolution of the Gilgamesh Epic. Philadelphia: University of Pennsylvania Press. ASIN 0865165467. ISBN 0-8122-7805-4. NCID BA00910337. OCLC 804000447
- 矢島, 文夫『メソポタミアの神話』筑摩書房〈世界の神話〉、1982年7月9日。ASIN 4480329013。ISBN 4-480-32901-3。 NCID BN04230609。OCLC 673828844。全国書誌番号:82052721。
- 矢島文夫 訳『ギルガメシュ叙事詩』筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、1998年2月10日。ASIN 4480084096。ISBN 4-480-08409-6。 NCID BA35402285。OCLC 675909060。全国書誌番号:98083316。
- 月本昭男 訳『ギルガメシュ叙事詩』岩波書店、1996年1月30日。ASIN 4000027522。ISBN 4-00-002752-2。 NCID BN13869293。OCLC 674771298。全国書誌番号:96043536。
- 岡田, 明子、小林, 登志子『シュメル神話の世界-粘土版に刻まれた最古のロマン-』中央公論新社〈中公新書〉、2008年12月。ASIN 4121019776。ISBN 978-4-12-101977-6。 NCID BA88334183。OCLC 675632527。全国書誌番号:21546869。
外部リンク
[編集]- British Museum: Cuneiform tablet from Sippar with the story of Atra-Hasis - ウェイバックマシン(2008年7月23日アーカイブ分)