アッシュル・エティル・イラニ
アッシュル・エティル・イラニ | |
---|---|
アッシリアの王 | |
在位期間 前631年頃-前627年頃[1] | |
先代 | アッシュルバニパル |
次代 | シン・シャル・イシュクン |
死亡 | 627 BC[2] |
父親 | アッシュルバニパル |
母親 | リッバリ・シャラト |
配偶者 | アナ・タシュメトゥム・タクラク? |
信仰 | 古代メソポタミアの宗教 |
アッシュル・エティル・イラニ(Ashur-etil-ilani、在位:前631年頃 - 前627年頃[n 1])は古代メソポタミア地方の新アッシリア帝国の王である。即位後わずか4年で亡くなった。発見されている史料は少なく、統治中の出来事を推測するのは困難である。軍事的遠征や狩猟を行った記録がないことから見て、弱体な支配者であった可能性がある。
アッシュル・エティル・イラニはAshur-etil-ilani / Ashur-etel-ilani[3] / Ashuretillilani[4]などと表記し、楔形文字では Aššur-etil-ilāni[5][6]、「アッシュル神は神々の長なり」[7]を意味する。
概要
[編集]アッシュル・エティル・イラニの人物像の詳細はわかっていない。彼は在位期間が短く、僅かな碑文しか残さなかった。史料の欠如のため、彼とその治世について推測するに足りる情報はほとんどない。
アッシュル・エティル・イラニが軍事的遠征や狩猟を行った記録がないことから見て、弱体な支配者であった可能性がある。よく知られているように、過去のアッシリア王たちはこうした活動を極めて頻繁に行っていた。このことはユダ王国のようなアッシリアの属国がその支配から離れ独立して行動する状況を誘発したかもしれない。アッシュル・エティル・イラニの地位は兄弟のシン・シャル・イシュクンに継承された。継承の状況は不明瞭であり、暴力的な手法による継承であったかどうかはわからない。
出自と編年
[編集]アッシュルバニパルの治世最後の数年間とアッシュル・エティル・イラニの治世は、利用できる史料が極めて不足している。アッシュルバニパルの治世における第一の史料である『アッシュルバニパルの年代記』の記録は前636年以降を網羅していない[8]。アッシュルバニパルの治世の終了はしばしば前627年とされるが[9][10]、これは1世紀近く後に新バビロニアの王ナボニドゥスの母がハッラーンに作らせた碑文に依っている。アッシュルバニパルが生きて王として統治していたことを示す最後の同時代史料はニップルで前631年に作成された契約書である[4]。彼の後継者たちの持つ確認された統治機関と整合させるため、大半の学者はアッシュルバニパルが前631年に死亡したか、退位したか、追放されたと考えている[11]。そしてこの3つの可能性のうち、前631年に死亡したという見解が最も受け入れられている[12]。もし、アッシュルバニパルの治世が前627年に終了したとするならば、後継者であるアッシュル・エティル・イラニとシン・シャル・イシュクンの碑文がバビロンに数年分存在するという事実と整合しない。これはバビロン市が新バビロニアの王ナボポラッサルによって前626年に占領されており、その後二度とアッシリアの手に戻ることがなかったためである[13]。
アッシュルバニパルは早くも前660年には後継者を指名しており、王太子に言及する文書史料が残されている。アッシュルバニパルは統治の早い段階で既に少なくとも1人、そして恐らくは2人の息子をもっていた。このアッシュルバニパルが早いうちにもうけた息子たちが恐らくアッシュル・エティル・イラニとシン・シャル・イシュクンである。「我が父は余を育てなかった(「育てる」とはある人を成人するまで世話したという意味である)」というアッシュル・エティル・イラニのある碑文のフレーズに基づき、彼が幼くして王位についたという一般的な想定が存在するが[14]、しかし同じフレーズがアッシュルバニパルの祈りの中に登場すること、そしてアッシュル・エティル・イラニの治世中に王子がいたことが証明されていることから、アッシュル・エティル・イラニが即位時に幼かったということはありそうにない[14]。
治世
[編集]前631年に父アッシュルバニパルが死亡するとアッシュル・エティル・イラニが即位した[15]。アッシュル・エティル・イラニからラブ・シャケ(幼少期からアッシュル・エティル・イラニに使えた将軍)であったシン・シュム・リシルへの土地の授与によって、アッシュルバニパルの死亡は自然死であったことが示唆されている[8]。アッシリアの歴史における大抵の王位継承と同じように、アッシュル・エティル・イラニのアッシリア王即位は当初、反対と動揺に直面していた[15]。シン・シュム・リシルへの土地の授与において、ナブー・リフツ・ウツル(Nabu-rihtu-usur)と呼ばれる役人の活動が言及されている。彼はシン・シャル・イブニ(Sin-shar-ibni)という別の役人の助けを借りて、アッシリア王位の簒奪を試みた。シン・シュム・リシルは恐らく、ナブー・リフツ・ウツルとシン・シャル・イブニを抑えてアッシュル・エティル・イラニの即位を助けた[8]。この反逆行為そのものの史料が存在していないことから見て、簒奪の陰謀は比較的速やかに潰されたものと見られる[15]。ニネヴェ市の発掘調査において、アッシュルバニパルの死亡の頃の火災跡が見つかっており、もしかすると、この陰謀は首都における暴力と動揺を引き起こしたかもしれないことを示している[16]。
バビロニアにアッシュル・エティル・イラニの碑文が分布していることから、アッシリア帝国の南部(即ちバビロニア)において彼が父アッシュルバニパルと同様の支配権を行使していたことが示されている。バビロンには属王カンダラヌが置かれていたが、実際の政治・軍事上の権限はアッシュル・エティル・イラニにあった。アッシュル・エティル・イラニの碑文はバビロン、ディルバト、シッパル、ニップルといった主要都市全てで発見されている[15]。アッシュル・エティル・イラニという人物について確かな仮説を構築するには現存する彼の碑文はとても少ない。アッシリア帝国の最も重要な都市の1つで、かつての首都であり彼の宮殿があったカルフ(ニムルド)での発掘では、父アッシュルバニパルら以前の王たちが強さや成功を表現するのに用いていたような、レリーフや彫像が見つかっておらず、これは彼が父よりも自らを誇るところが少なかったと解釈できるかもしれない[17]。このような描写が欠如している理由の一部は、アッシュル・エティル・イラニが軍事遠征や狩猟を行っていないことにあるのかもしれない。彼のカルフの宮殿は小さな部屋をもつアッシリア王室の標準よりかなり小規模なものであった[18]。アッシリアの属国の一部が、アッシュル・エティル・イラニを弱い支配者だと認識し、その在位の間にアッシリアの支配下からの離脱、さらにはアッシリアの前哨地への攻撃さえ行った可能性もある。例えば前628年頃、表向きはレヴァントの属国であったユダ王国の王ヨシヤが、地中海の海岸自らの領土を拡張し、アシュドド市を占領して自らの臣民の一部をそこに住まわせた[18]。
アッシュル・エティル・イラニが兄弟のシン・シャル・イシュクンと王位を巡って争ったという仮定は根拠を伴わず頻繁に提示される[19]。実際、アッシュル・エティル・イラニの死と兄弟シン・シャル・イシュクンの即位を巡る正確な状況は不明であるが、アッシュル・エティル・イラニがクーデターによって追放されたり殺害されたりしたことを示す史料は存在しない[15]。
称号
[編集]アッシュル・エティル・イラニの短い治世中の現存碑文は極めて少ない。カルフのナブー神殿のレンガに残された彼の称号は次の通りである。
関連項目
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ Na’aman 1991, p. 243.
- ^ Lipschits 2005, p. 13.
- ^ a b Leick 2002, p. 28.
- ^ a b Reade 1970, p. 1.
- ^ Bertin 1891, p. 50.
- ^ Na’aman 1991, p. 248.
- ^ Tallqvist 1914, p. 39.
- ^ a b c Ahmed 2018, p. 121.
- ^ Encyclopaedia Britannica.
- ^ Mark 2009.
- ^ Reade 1998, p. 263.
- ^ Ahmed 2018, p. 8.
- ^ Na’aman 1991, p. 246.
- ^ a b Ahmed 2018, pp. 122–123.
- ^ a b c d e Na’aman 1991, p. 255.
- ^ Ahmed 2018, p. 122.
- ^ Ahmed 2018, p. 128.
- ^ a b Ahmed 2018, p. 129.
- ^ Ahmed 2018, p. 126.
- ^ Luckenbill 1927, p. 408.
参考文献
[編集]- Ahmed, Sami Said (2018). Southern Mesopotamia in the time of Ashurbanipal. Walter de Gruyter GmbH & Co KG. ISBN 978-3111033587
(『アッシュルバニパルの時代の南部メソポタミア』(著:サミ・セッド・アーメド、ウォルター・ド・グルーター出版(ドイツ)、2018年)) - Bertin, George (1891). “Babylonian Chronology and History”. Transactions of the Royal Historical Society 5: 1–52 .
(『バビロニアの年代記と歴史』(著:ジョージ・バートン、1891年、ケンブリッジ大学出版)) - Lipschits, Oled (2005). The Fall and Rise of Jerusalem: Judah under Babylonian Rule. Eisenbrauns. ISBN 978-1575060958
(『エルサレムの陥落と復興:新バビロニア帝国統治下のユダ』(著:オデド・リプシッツ、2005年、アイゼンブラウン社(米国))) - Leick, Gwendolyn (2002). Who's Who in the Ancient Near East. Routledge. ISBN 978-0415132312
(『古代近東人物事典』(グウェンドリン・レイク(著)、2002年、ラウトレッジ社(英国))) - Luckenbill, Daniel David (1927). Ancient Records of Assyria and Babylonia Volume 2: Historical Records of Assyria From Sargon to the End. University of Chicago Press
(『アッシリアとバビロニアの古代の記録』第2巻『サルゴンから滅亡までの期間におけるアッシリアの史料』(著:ダニエル・デーヴィッド・ラッケンビル、1927年、シカゴ大学出版)) - Na’aman, Nadav (1991). “Chronology and History in the Late Assyrian Empire (631—619 B.C.)”. Zeitschrift für Assyriologie 81: 243–267 .
(「アッシリア・近東考古学学術誌」第81号(1991年)p.243-367に収録されている、『アッシリア帝国の年代記と歴史(紀元前631~619年)』(ナダブ・ナーマン)) - Reade, J. E. (1970). “The Accession of Sinsharishkun”. Journal of Cuneiform Studies 23 (1): 1–9. doi:10.2307/1359277. JSTOR 1359277.
(『楔形文字研究誌』第23号(1970年、シカゴ大学出版)第1分冊p.1-9に収録されている『シンシャンイクシュンの王位継承』(著:ジュリアン・エジウォース・リード)) - Reade, J. E. (1998). “Assyrian eponyms, kings and pretenders, 648-605 BC”. Orientalia (NOVA Series) 67 (2): 255–265. JSTOR 43076393.
(『オリエンタリア』(グレゴリアン大学聖書出版(イタリア))第67号(1998年)第2分冊p.255-265に収録されている『アッシリアの名祖、王、王位詐称者:前648-605年』(著:ジュリアン・エジウォース・リード)) - Tallqvist, Knut Leonard (1914). Assyrian Personal Names. Leipzig: August Pries
(『アッシリアの人名』(著:クヌート・レオナルド・タールクヴィスト、1914年、アウグスト・プライス出版(ドイツ))
参考Webサイト
[編集]- “Ashurbanipal”. Encyclopaedia Britannica. 28 November 2019閲覧。
(『アッシュルバニパル』(ブリタニカ百科事典)) - Mark, Joshua J. (2009年). “Ashurbanipal”. Ancient History Encyclopedia. 28 November 2019閲覧。
(『アッシュルバニパル』(「古代史百科事典」に収録。記事はジョシュア・J・マークによる))
外部リンク
[編集]- ダニエル・デーヴィッド・ラッケンビル:Ancient Records of Assyria and Babylonia Volume 2: Historical Records of Assyria From Sargon to the End, アッシュル・エティル・イラニの碑文の英訳がある。
先代 アッシュルバニパル |
アッシリア王 前631頃年-前627年頃 |
次代 シン・シュム・リシル |