アクラシア
アクラシアまたはアクラシアー(古代ギリシア語: ἀκρασία, 英語: akrasia, acrasia)とは、古代ギリシア語で「自制心のなさ」「意志の弱さ」「悪い行為だと自覚しているのに手を染めてしまう心の傾向」を意味する単語。主に古代ギリシア哲学・現代哲学・倫理学の用語。アクラシア問題ともいう[1]。
平たく言えば、「わかっちゃいるけどやめられない」「悪いことと知りつつ、ついやってしまった」の概念[2]。依存症・衝動的犯罪・暴飲暴食・喫煙・怠惰などの一因。
語源・訳語
[編集]「アクラシア」(ἀκρασία)の語源は、古代ギリシア語で「統制」「力」などを意味する名詞「クラトス」(κράτος)に、否定の接頭辞「ア」(ἀ-)を足した上で、抽象名詞化したもの。直訳は「無自制」「無抑制」(英語: incontinence)[3][4]。対義語は「自制」「抑制」を意味する「エンクラテイア」または「節制」[5]。
現代の英語圏では、「意志の弱さ」(weakness of will)と言い換えられることが多い[3][4][6]。そのほか、「アクラティックな行為」(akratic action)、「意志の弱い行為」(weak-willed action)という表現も使われる。
ギリシア哲学
[編集]「アクラシア」は、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』で詳細に論じられる。その背景には、プラトン対話篇『プロタゴラス』における、ソクラテスの学説がある。
ソクラテスは『プロタゴラス』のなかで、人間が悪い行為に手を染める原因について考察した。ソクラテスはそこで、ソクラテス式問答法の手法や「計量術」のアイデアによって考察した後、最終的な結論として、「人間が悪い行為をするのは、その行為が悪い行為であると知らないからである」すなわち「悪は無知から生まれる」のだと説いた。言い換えれば、「悪い行為を悪い行為だと知っている人間ならば、自発的に悪い行為に手を染めることは無いはずだ」とソクラテスは説いた。
しかしながら、現実にはそのようなことはなく、悪い行為だと知りながらも手を染めてしまう事例、つまり「アクラシア」の事例が無数にある。そのような背景から、アリストテレスは『ニコマコス倫理学』のなかでアクラシアについて考察した。その際にアリストテレスは、現実の事例として酔っぱらいに対する刑罰のあり方などを論じている[1]。ただし、アリストテレスが結局のところ何を主張していたかは、学者の間でも複数の解釈がある[7][8]。
ヘレニズム期
[編集]『新約聖書』では、コイネーの語彙として「アクラシア」が用いられている。具体的には二箇所で用いられており、一方は『マタイによる福音書』23:25で、イエスが偽善的な宗教家の特徴を述べる際に、もう一方は『コリントの信徒への手紙一』7:5で、パウロが夫婦の信徒の性生活のあり方について述べる際に、「アクラシア」が用いられている[注釈 1]。また以上の二箇所以外にも、『ローマの信徒への手紙』7:15–25では、アクラシアにあたる心の現象について、神の律法と対立する心の罪なる法則として言及されている。
インドのアショーカ王碑文の一つ「カンダハル碑文」(ギリシア語とアラム語で書かれている)にも、「アクラシア」が出てくる[9]。
中近世
[編集]トマス・アクィナスは、アクラシアの同義語にあたる「無抑制」(羅: incontinentia)について論じた[10]。
16世紀イングランドの詩人、エドマンド・スペンサーの『妖精の女王』第2巻では、アクラシア(英語読み: アクレイジア)が擬人化されて登場する。アクレイジアは、ギリシア神話の魔女キルケーのように、人間の男たちを動物に変えてしまう魔女として描かれており、最終的に節制の騎士ガイアンによって征伐されてしまう[11]。後世、そのような魔女アクレイジアをめぐっては、ベルギー象徴派の画家、フェルナン・クノップフが1892年に裸婦画として描いている[12]。また、現代の文芸評論家で新歴史主義の旗手として知られるスティーヴン・グリーンブラットは、ルネサンス期における「紳士」の形成という観点から、スペンサーによるアクレイジアの表象について詳細に論じている[13][11]。
現代
[編集]「アクラシア」は、現代哲学・倫理学においても論じられる。具体的には、行為論(行為の哲学)[7]、自由意志、非合理性、実践的推論などを文脈として論じられる。またはそれに加えて、徳倫理学や古代哲学研究によるアリストテレス・リバイバルを文脈として論じられる。
アクラシアを論じた現代の哲学者として、1970年代ごろのドナルド・デイヴィッドソン[14]、1980年以降のアメリー・ローティらがいる。
あるいは哲学よりも社会心理学などで、「セルフコントロール」「自我消耗」「先延ばし」についての研究が進められている。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b 立花 2007, p. 91f.
- ^ “AKRASIA”. plaza.umin.ac.jp. 児玉聡. 2020年8月2日閲覧。
- ^ a b 浅野 2012, p. 178.
- ^ a b 山口尚 (2020年6月29日). “意志の弱さとの付き合い方――浅野光紀の『非合理性の哲学』(新曜社、2012年)再訪”. note(ノート). 2020年8月2日閲覧。
- ^ 津田 2002, p. 117.
- ^ 浅野 2008, p. 17.
- ^ a b 山本 2008, p. 45.
- ^ 相澤 2018, p. 121.
- ^ 金澤修「アショーカ王カンダハル碑文におけるアクラシア概念 ――翻訳語としてのギリシア語を巡って――」『比較思想研究』45号、比較思想学会、2018年。NAID 40022309183
- ^ 松根伸治「トマス・アクィナスの無抑制(incontinentia)論」、京都大学 博士論文、2002年。
- ^ a b 北村紗衣「雅にして強かなる罠――『アントニーとクレオパトラ』における紳士の形成の危機」『比較文学・文化論集』第25巻、東京大学比較文学・文化研究会、2008年、p.9f。
- ^ “Œuvre « Acrasia. The Faerie Queen » – Musées royaux des Beaux-Arts de Belgique” (フランス語). www.fine-arts-museum.be. ベルギー王立美術館. 2020年9月5日閲覧。
- ^ S. グリーンブラット 著、高田茂樹 訳『ルネサンスの自己成型 モアからシェイクスピアまで』みすず書房、1992年。ISBN 9784622046882。 (第4章「紳士を成型する—スペンサーと至福の宮の破壊」)
- ^ 山本 2006.
関連文献
[編集]書籍
- ジュリアン・バッジーニ、ピーター・フォスル 著 / 長滝祥司、廣瀬覚 訳『倫理学の道具箱』共立出版、2012年。ISBN 978-4320005860。
- ドナルド・デイヴィッドソン著 / 服部裕幸;柴田正良訳『行為と出来事』勁草書房、1990年。ISBN 978-4-326-10082-8
- 浅野光紀『非合理性の哲学―アクラシアと自己欺瞞』新曜社、2012年。ISBN 978-4788512962。
- 菅豊彦『アリストテレス『ニコマコス倫理学』を読む 幸福とは何か』勁草書房、2016年。ISBN 978-4326154371。(第四章「徳とアクラシア」)
- 中畑正志『はじめてのプラトン』講談社現代新書、2021年。ISBN 9784065237335。
論文
- 相澤康隆「アリストテレスのアクラシア論 ――伝統的解釈とその修正――」『哲学』第60号、日本哲学会、2009年 。
- 浅野光紀「二つのアクラシア:懐疑論論駁」『科学哲学』41巻2、日本科学哲学会、2008年 。
- 立花幸司「アリストテレスにおける酔っぱらい : ソクラテスのパラドックスとアクラシア」『哲学・科学史論叢』、東京大学大学教養学部哲学・科学史部会、2007年 。
- 津田徹「アリストテレス 『ニコマコス倫理学』におけるアクラシアー論」『紀要 人文論究』、関西学院大学、2002年 。
- 山本麻衣子「デイヴィドソンのアクラシア論」『紀要 人間文化論叢』、お茶の水女子大学、2006年 。
- 山本麻衣子「アリストテレスのアクラシア論」『科学哲学』41巻1、2008年 。
外部リンク
[編集]- Weakness of Will - スタンフォード哲学百科事典「意志の弱さ」の項目。
- Aristotle’s Ethics - 同「アリストテレスの倫理学」の項目。
- 相澤康隆. “2011年度 東京大学文学部・大学院人文社会系研究科 博士論文 アリストテレスのアクラシア論―「自制心のない人」とはどのような人か―”. www.l.u-tokyo.ac.jp. 2020年8月9日閲覧。
- 児玉聡 (2004年). “AKRASIA”. plaza.umin.ac.jp. 2020年8月2日閲覧。
- 山口尚 (2020年6月29日). “意志の弱さとの付き合い方――浅野光紀の『非合理性の哲学』(新曜社、2012年)再訪”. note(ノート). 2020年8月2日閲覧。