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アキーレ・ヴァルツィ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アキッレ・バルツィから転送)
アキーレ・ヴァルツィ
Achille Varzi
モンレリでのヴァルツィ
(1931年)
基本情報
国籍 イタリアの旗 イタリア
生年月日 (1904-08-08) 1904年8月8日
出身地 イタリア王国の旗 イタリア王国
ピエモンテ州ガッリアーテ
死没日 (1948-07-01) 1948年7月1日(43歳没)
死没地 スイスの旗 スイス
ベルン州ブレムガルテン・バイ・ベルン英語版
ブレムガルテン・サーキット
ル・マン24時間での経歴
1931
チームブガッティ
最高位DNS (1931)
クラス優勝0
アルファロメオ・チームとアキーレ・ヴァルツィ (前列左から3人目)

アキーレ・ヴァルツィAchille Varzi, 1904年8月8日 - 1948年7月1日)はイタリアレーシングドライバー。戦前のグランプリで数多くの勝利を挙げたことで知られる。

アキーレ・バルツィ」または「アキッレ・ヴァルツィ」と表記されることもある。

来歴

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ヴァルツィはノヴァーラ県ガッリアーテに、裕福な製綿業者の息子として生まれた。1928年に4輪レースに転向する以前、ヴァルツィはガレリDOT (オートバイ)英語版サンビームのバイクレーサーとして成功したキャリアを築いており、マン島TT1924年から7度にわたって出場した記録がある。1928年以降の10年間、ヴァルツィはタツィオ・ヌヴォラーリルドルフ・カラツィオラベルント・ローゼマイヤーなどと熾烈な争いを繰り広げることになる。

ヴァルツィがドライブした最初のレーシングカーはブガッティ・タイプ35だったが、すぐにアルファロメオのマシンに乗り換えた。1929年のイタリアのレースシーンでヴァルツィは多くの勝利を挙げた。1930年には当時新興のメーカーだったマセラティからレースカーを託され、アルファとマセラティをドライブして勝利を積み上げたヴァルツィは、1930年のイタリア選手権のチャンピオンになった。(1934年にも再びイタリア選手権も制することになる)ルイ・シロンを逆転して得た1930年タルガ・フローリオでの勝利はヴァルツィのキャリアでも最高の物の一つだった。他方、1933年トリポリグランプリでの勝利は八百長が行われたという疑惑の中でのものであり、この件でヴァルツィは批判の矢面に立たされた。

1934年のグランプリ・シーズンアルファロメオ・P3をドライブしたヴァルツィは6つのグランプリに勝利し、タルガ・フローリオミッレミリアを同年に制した史上初のドライバーとなった[1][要ページ番号]

エンツォ・フェラーリによるマネジメントの元でアルファロメオ・チームは高い競争力を保っていたが、ヴァルツィはアルファロメオに見切りをつけ、1935年アウトウニオンに移籍した。アウトウニオンには1937年まで在籍したが、この時期のヴァルツィは私生活に深刻な問題を抱えていた。慢性的なモルヒネ中毒と、同僚パウル・ピーチュ英語版の妻イルゼ・ピーチュとのスキャンダルはヴァルツィのパフォーマンスに悪影響を及ぼした[2]。アウトウニオンでベルント・ローゼマイヤーの後塵を拝したヴァルツィは4勝を挙げるにとどまったが、トリポリでの3回目の勝利は3つの異なるメーカーで成し遂げたものとなった。ヴァルツィのライバルの1人であり、ヨーロッパ選手権で3度チャンピオンとなったルドルフ・カラツィオラは、アウトウニオンの高難度な操縦をマスターしたドライバーは、ヴァルツィとローゼマイヤーの2人だけであったと語っている[3]

1938年、ヴァルツィはレース界から姿を消したが、間もなく勃発した第二次世界大戦がヨーロッパのレーシング自体の終焉をもたらした。戦争中、ヴァルツィはモルヒネ中毒を克服することに成功し、ノーマ・コロンボと2度目の結婚をして落ち着いた生活を送った。戦争が終わると、ヴァルツィは42才にしてレースの世界にカムバックし、関係者を驚かせた。ヴァルツィは1946年のインディ500英語版にマセラティで出走したが、予選突破は成らなかった[4]1947年には3つのローカルなグランプリに勝利し、ブエノスアイレスグランプリに参加するためアルゼンチンにも渡った。

事故死

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1948年スイスグランプリの練習走行セッションは小雨の中で行われていた。ヴァルツィのアルファロメオ・158は、ブレムガルテン・サーキットの濡れた路面でコントロールを失い、バリアに接触して横転した。ヴァルツィは車体に押し潰され命を落とした。その後、彼は故郷に埋葬された。

業績

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モータースポーツジャーナリスト、ジョルジオ・テルッツィの1991年の著書『アキーレ・ヴァルツィの一生』によると、ヴァルツィはその生涯で139レースに出走し、33のレースに優勝した。主な勝利を以下に挙げる。

遺産

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ヴァルツィの死はFIAがドライバーのクラッシュヘルメットの装着を義務化する契機となった。(この事故の発生までは任意であり義務ではなかった)[5]

1950年のF1世界選手権にはスクーデリア・アキーレ・ヴァルツィというチームが参戦した。このチームでは、フロイラン・ゴンザレスネッロ・パガーニマセラティ・4CLTをドライブした[6]

2004年6月5日、イタリア郵便局英語版はヴァルツィの業績を記念した切手を発行した[7]

ヴァルツィの親類で同姓同名のアキーレ・ヴァルツィ (哲学者)英語版は、コロンビア大学で哲学の教授を務めている。

レース戦績

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ヨーロッパ選手権

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エントラント メーカー 1 2 3 4 5 6 7 EDC ポイント
1931年 ユジーヌ・ブガッティ ブガッティ ITA
Ret
FRA
1
BEL
Ret
5位= 13
1932年 エットーレ・ブガッティ ITA
Ret
FRA
Ret
GER
DNS
9位= 19
1935年 アウトウニオン アウトウニオン MON FRA
5
BEL GER
8
SUI
4
ITA
Ret
ESP
Ret
7位= 39 (40)
1936年 MON
2
GER SUI
2
ITA
Ret
4位 19
1937年 アウトウニオン アウトウニオン BEL GER MON SUI ITA
6
20位= 36

グランド・ゼプルーヴ(第二次世界大戦前)

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グランド・ゼプルーヴ(第二次世界大戦後)

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脚注

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  1. ^ Martini, Sandro. Tracks: Racing the Sun. London: Aurora Metro Publications. ISBN 1906582432 
  2. ^ Martini, Sandro. Tracks: Racing the Sun. London: Aurora Metro Publications. p. 339. ISBN 1906582432 
  3. ^ カラツィオラ, ルドルフ 著、高斎正 訳『カラツィオラ自伝』二玄社、1969年、141頁。 
  4. ^ Acchille Varzi, Champ Car Stats, retrieved 2010-12-24
  5. ^ Plumb, Philip W. The Clipper Book of Motor Racing Facts. London: Clipper Press. p. 42. ISBN 0-85108-008-1 
  6. ^ Scuderia Achille Varzi - ChicaneF1.com”. Chicanef1.dyndns.org. 2011年3月20日閲覧。
  7. ^ Archivio emissioni, Achille Varzi”. 2007年6月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年5月9日閲覧。

外部リンク

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