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利用者:Ibaraki101c/sandbox

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長岡城は、千葉県匝瑳市長岡にあった日本の城。

歴史

長岡城は、椎名氏一族の長岡氏の居城と伝えられている。

「千葉大系図」によると、千葉常胤の弟・椎名胤光の6男胤貞の長男行胤が長岡に分出して、長岡氏を名乗ったという。隣接する大浦城主の大浦胤基の兄にあたる。長岡城を築城したのは、その長岡行胤であると考えられている。

長岡の地は、大浦とともに匝瑳南条荘の北端に位置し、借当川を挟んで対岸は匝瑳北条荘である。この城は、北方に築かれた飯高城内山城に対する前線基地の役割を果たした。

構造

北方へ突出した台地全域が城跡で、唯一陸続きの南側に虎口がある。台地の中心部が主郭で、星宮神社が祀られている。

アクセス




大浦城は、千葉県匝瑳市大浦にあった日本の城。

歴史

大浦城は、椎名氏一族の大浦胤基によって築城された。「千葉大系図」等によれば、胤基は千葉常胤の弟・椎名胤光の7男飯倉胤貞の2男とされており、大浦地区に分出して大浦弥四郎胤基を名乗り、大浦城を築いたものと伝えられている。

大浦の地は、匝瑳南条荘の北端に位置し、借当川を挟んで対岸は匝瑳北条荘である。この城は、北方に築かれた飯高城内山城に対する前線基地の役割を果たした。

大浦城跡のある堀之内の住民の間では、「むかし沼の向こうにある城(内山城)との間で、何度も戦闘が繰り返された。このため、毎日物見が立ち、先方の動静を伺い、これに対応する態勢を整えていた」との伝承がある。

構造

蓮華寺の背後の台地状が大浦城跡である。堀之内集落の台地から北に突出した半島状台地全域が城跡で、東、北、西側は水田地帯に面している。唯一陸続きとなる南側は、堀で切り離されていたようである。

アクセス




松山城は、千葉県匝瑳市松山にあった日本の城。

歴史

松山城は、八日市場駅から北へ2㎞程のところにある松山神社周辺に築かれた城で、城主は千葉一族の松山氏といわれている。

松山氏は、千葉常胤の弟で、千葉荘椎名郷を領していた椎名胤光の子、胤平を祖としている。頼朝による木曽義仲討伐軍、平家討伐軍の中に椎名胤平(松山胤平)の名前が見え、胤平が頼朝に従って戦っていたことがわかる。それらの功により、椎名氏は匝瑳南条荘を与えられ、胤平は松山に入ったと考えられている[1]

ただし、地元の研究者の中には、この説に異を唱える向きもある[2]

松山胤平以後の系譜は、胤澄、胤村、胤継と続き、以後は不明である。松山は中世を通じて松山氏の領地として続き、戦国期には松山の台地上に城が築かれた。詳しいことはわからないが、松山氏は戦国時代末期には千葉氏を通じて小田原北条氏に属していたと推定される。

構造

南北700m、東西300mに及ぶ広大な城域を有している。城跡の中央を県道が貫いているため、城跡の形状はわかりにくいが、周辺に遺構が残されている。

アクセス



匝瑳城は、千葉県匝瑳市八日市場イにあった日本の城。

歴史

匝瑳城は、八日市場城の北西500mほどのところにある台地上に築かれた城で、現在は匝瑳高校の敷地となっている。城主は、千葉一族の匝瑳氏であったといわれている。

匝瑳氏は、複数の系統がある大族で、このうち千葉介系は、平常兼の四子・常広が匝瑳八郎を称して匝瑳郡司職に補任され、椿海西岸の台地一帯を支配する開発領主となった。この匝瑳常広が匝瑳城を築いたものと推定される[3]

匝瑳常広からは、飯高、野手、松山、飯倉、長岡、大浦、岩室などの各氏が発生し、郡内の各地に居館を築いて、「匝瑳党」と呼ばれる強力な武士団を形成していった。

しかし、「千葉大系図」には、匝瑳氏として常広とその子常正が載っているだけで、匝瑳氏の活躍を記録した史書もない。嫡流の匝瑳氏は次第に衰退して、応永25年(1418年)に上杉禅秀の乱の余波を受けた上総本一揆で討伐され、滅んだと伝えられている[4]

構造

匝瑳高校の敷地となっているため、遺構は消滅している。北側のグラウンドにわずかに土塁状のマウンドが見られる。

アクセス



八日市場城は、千葉県匝瑳市八日市場イにあった日本の城。

歴史

八日市場城は、JR八日市場駅の北側、現在は天神山公園となっている丘陵上に築かれている。歴史不詳の城であるが、城主は押田氏であったといわれている。城内の福善寺にある秩父妙見は、応永年間に押田常重によって創建されたとの寺伝がある[5]。調査によると、16世紀代の在地の土器等のが出土していることから、押田氏の勢力拡大に伴い取り立てられた城と考えられる。

押田氏はもとは清和源氏の家系の1つで、源義隆を祖とし、鎌倉時代に三浦一族が滅びた宝治合戦(1247年)で三浦方について一族が討ち死にしたという。その子孫が千葉氏に匿われたことで千葉氏の重臣となり、下総国の押田氏として家名を伝えた[6]

なお、近年は大河氏も城主だったとの説が資料等で明らかとなっている[7]

城内中心部には「新城」の小字名が残るが、これに対する「本城」はやや西にあった要害台城といわれており、2つ合わせて1つの城であったとの説がある。

構造

台地周囲は断崖になっており、天然の要害となっている。規模は、300m×350mほどで、2つの郭からなる。西側の郭の東北隅に櫓台が残り、浅間神社が祀られている。

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久方城は、千葉県匝瑳市久方にあった日本の城

歴史

久方城は、歴史不詳の城である。城主についても定かではないが、戦国時代末期には千葉一族の三谷氏が領主だったと伝わっている[8]

永禄元亀年間(1558~73年)頃のものとされる『千葉胤富黒印状』に、八日市場城主押田権四郎の配下として、久方二郎右衛門・同兵庫助の名が見え、当城との関連が指摘されている。

近隣には「堰止」「小渡し」等の小字が見られ、水上交通の要衝に築かれた城であることが分かる。

構造

台地先端に土塁の全周する区画があり、主郭と見られている。主郭内部は、中央で段差をもって2分割されている。主郭の北側には、寺院があったとされる空間がある[9]

アクセス


米倉城(よなぐらじょう)は、千葉県匝瑳市八日市場ホにあった日本の城

歴史

米倉城は、千葉一族椎名氏が拠点とした重要な城の1つである。椎名氏は、千葉常胤の弟で、千葉荘椎名郷に本拠を置いていた椎名胤光に始まる一族で、文治5年(1189年)以降に匝瑳南条荘(匝瑳市の借当川より南側)に移り住んだとされる[10]

当初は、米倉城の西1㎞程のところにある飯倉城を拠点としていたが、地域の伝承では、応永年間に拠点を米倉城に移したと伝えられている。

椎名氏は、戦国時代になると匝瑳南条荘を支配し、匝瑳北条荘に勢力を持つ飯高城の飯高氏と争った。両荘の境を流れる借当川に近い椿海城田久保城大浦城宮和田城長岡城などが前線基地的な役割を果たしてきたと考えられる[11]

構造

広大な城域を有しているが、江戸時代に改変されており、わずかに西光寺南側に遺構を残すのみとなっている。台地上には、大規模な土塁が南北に伸びて残存する。

アクセス


飯倉城(いいくらじょう)は、千葉県匝瑳市飯倉にあった日本の城

歴史

飯倉城は、椎名氏の居城といわれる。椎名氏は、千葉常胤の弟で、千葉荘椎名郷に本拠を置いていた椎名胤光に始まる一族で、文治5年(1189年)以降に匝瑳南条荘(匝瑳市の借当川より南側)に移り住んだとされる[12]。胤光の子孫は、積極的に新田開発を進め、匝瑳南条荘の各地に居館を設けて武士団を形成していた。飯倉椎名氏は、椎名党の惣領家として威勢を誇り、代々伊勢守を称して本佐倉城の千葉本宗家の重臣であった[13]

椎名氏の居城であったと伝えられる城館は複数あるが、遺構をとどめるものは飯倉城が唯一であり、その立地条件から見て、椎名氏の拠点であったと推察されている[14]

地域の伝承では、応永年間に拠点を米倉城に移したと伝えられており、その後の飯倉城には重臣の片岡氏が入ったと言われている。

構造

標高36mの台地頂上部に立地する。字要害にある郭は台形の区画で、北側に高さ2m、幅9mもある重厚な土塁がL字状に残されている。南方の飯倉千手院の境内には、千葉氏の信仰していた妙見菩薩が祀られている。

アクセス



新村城新城(しむらじょう)は、千葉県匝瑳市新にあった日本の城

歴史

新村城は、伝承によれば坂田城主井田氏の家臣・三谷氏の居城であるとされるが、築城年代・築城者については不明な点が多い。戦国時代末期の城主としては、井田文書の中に三谷胤重が確認できる[15]

新村城と飯倉城の中間に、「一夜塚」と呼ばれる小高い塚がある。その昔、飯倉城主が新村城を攻めるとき、ここに一夜で塚を作って陣を構え、新村城を攻め落とした。このことから、「一夜塚」の名がついたという。

また、新村城主には姫がおり、その姫は自分の形見として金の茶釜を持っていた。新村城が飯倉城の兵によって攻め落とされたのを悲しみ、姫はその茶釜をもって城内の井戸に身を投じた。その茶釜が城跡の東約1㎞のところにある薬王寺に伝わっているといわれる[16]

城跡には、八雲神社が祀られている。この神社はもともと妙見社で、明治3年に八雲神社に改称した。

構造

城跡は、標高約27mの半島状台地を占拠する直線連郭式の遺構で、主郭部は3つの郭からなる。城の規模は、南北300m、東西100mほどで、ほぼ完全な形で遺構が残されている。

アクセス



新砦(しんとりで)は、千葉県匝瑳市飯高にあった日本の城。

歴史

新砦は、飯高砦、天神砦などとともに飯高城の防衛を担った出城の一つと考えられている。歴史・城主については、資料や伝承が残されておらず、詳しいことはわからない[17]

なお、新砦の北側にも別の砦が築かれていたという。現在の法華寺跡のところで、延慶年間に千葉一族とされる新藤太縦空なる人物が砦を構えたといわれている[18]。法華寺跡周辺には「馬場」「殿下」の小字名も残されている。

戦国時代には平山氏の支配下に置かれ、飯高城の見張りのために、南方の新砦に番が置かれていたと考えられている。

構造

小規模な台地上に、大小3つの郭跡が残存する。

アクセス

  • JR八日市場駅から匝瑳市内循環バス 飯高仲台下車 徒歩4分



飯高砦(いいだかとりで)は、千葉県匝瑳市飯高にあった日本の城。

歴史

飯高砦の詳細は不明であるが、飯高城の南方800mに位置するため、新砦、天神砦などとともに飯高城の防衛を担った出城の一つだったと考えられている。

平安時代後期、千葉一族の匝瑳常広の子・政胤が飯高の地を所領とし、飯高氏の始祖となったと伝わる。飯高砦を居城としたのは、その飯高氏といわれているが、資料的な根拠はない。戦国時代、飯高城には平山常時が入ったが、その支配下に置かれた支城の1つであった[19]

砦跡には、飯高神社が建っている。飯高神社は、もとは妙見社で、社伝によると天慶年間に平山常時の祖とされる新藤太縦空なる人物が千葉妙見を勧請したという。

構造

妙福寺の裏山に築かれた城郭で、山頂には飯高神社が鎮座している。妙福寺は、谷戸式居館が営まれていたと考えられるので、山麓に屋敷、山頂に防衛施設が築かれていた可能性も指摘されている[20]

アクセス

  • JR八日市場駅から匝瑳市内循環バス 飯高仲台下車 徒歩4分



飯高城(いいだかじょう)は、千葉県匝瑳市飯高にあった日本の城。

歴史

鎌倉時代、飯高の地は千葉一族・飯高氏の本貫地であり、南北朝時代まで同氏の支配するところとなった。飯高氏が飯高城を居城としたのかは不明であるが、城郭の構造が同氏と同時代に築城されたものと考えられるので、一時期拠点とした可能性もある[21]

戦国時代には、匝瑳北条の地頭であった平山常時が居城したと伝えられる。常時がどのような系譜に連なる武士であるかは、資料が少なく不明な点が多い。常時は日蓮宗に帰依しており、天正19年(1591年)に城域のすべてを寄進し、飯高寺(飯高檀林)が開かれた。

周辺には「城下」という地名が残り、「ねごや」と読む。

構造

標高36mの半島状台地のほぼ全域を占拠しており、土塁と空堀で直線的に分割した構造となっている。5つの郭が認められ、規模は南北150m、東西100mほどである[22]

アクセス

  • JR八日市場駅から匝瑳市内循環バス 飯高仲台下車 徒歩6分






立山城(たちやまじょう)は、千葉市緑区大木戸町にあった日本の城。

歴史

立山城は、大椎城の西方に村田川を挟んで南北に連なる城である。「隠居城」と呼ばれており、村田川が天然の外堀のように城址の北側から東側を通って西側に迂回している。

「立山」は「館山」に通じることから、「やかたの山」、つまり中世に武士団の館跡があったところの「館城」と考えられる。

城址には、「狐塚」などの円墳が多く存在し、その周辺から平安時代鎌倉時代の陶器の破片が発見されている[23]

構造

規模は200m×250mほどで、比高35mほどの台地上に郭や空堀の跡が認められる[24]

アクセス



天神砦(てんじんとりで)は、千葉県匝瑳市飯高にあった日本の城

歴史

天神砦は、飯高城の東300mほどの台地に築かれた城郭で、飯高城の防衛を担う支城の1つだったと考えられる。鎌倉時代から南北朝時代にかけて、飯高は千葉一族飯高氏の本貫地で、戦国時代には匝瑳北条の地頭であった平山常時が飯高城に居城したと伝えられている[25]

平山氏は、千葉氏小田原北条氏に属していたとされるため、飯高城は小田原の役をもって廃城となり、周辺の城郭群もその役目を終えたと考えられる。

構造

城郭跡には天神社が建っている。土塁、堀切、竪堀遺構などが残り、戦国期の城郭の構造をよく残している[26]

アクセス

  • JR八日市場駅から匝瑳市内循環バス 飯高仲台下車 徒歩9分



志津城は、千葉県佐倉市上志津にあった日本の城

歴史

志津城は、臼井城の支城の1つで、臼井城の南西約4㎞のところにある。この城には、臼井昌胤の次男である志津胤氏が拠っていた。

胤氏は兄である臼井城主・臼井祐胤が1314年の秋に病死すると、遺児・竹若丸の面倒を見ることとなったが、やがて当主の座を奪うために竹若丸を殺害しようとした。これを知った岩戸胤安の功により、竹若丸は鎌倉の建長寺へ逃れ、のちに成長して臼井興胤と名乗り、臼井城に復帰した。胤氏は興胤に仕えることになったものの、不遜な態度をとり続けたため、興胤は志津城を攻めた。兵のない胤氏は自刃し、妻子も後を追ったという[27]

構造

城跡の片隅に天中主命神社があり、もとは妙見社だったようである。城の規模は190×150mで、谷戸式の館があったと考えられている[28]

アクセス





太田用替城(おおたようがえじょう)は、千葉県佐倉市太田にあった日本の城。

歴史

「用替」は、「要害」が訛ったもので、JR佐倉駅の南方1.8㎞のところである。

この辺りは、鎌倉時代千葉常胤が初めて陣屋を置いたところといわれ、当時は人家が密集して小都市を形成していたとされる。近隣に住む藤代を名乗る人は、千葉氏の家臣の子孫だということである[29]

「日本城郭大系」では、寺崎城といわれているものは、この太田用替城のことなのではないかとの説を掲載している。現在、寺崎地区には城址らしいものがなく、寺崎地区はもともと太田と六崎の枝村であるからということである。

構造

南北100m、東西60mほどを主郭とし、その下の外縁部には長い腰曲輪がある。主郭の北には、台地と絶縁するためにかなり大きな竪堀が掘られている。虎口は南方にある[30]

アクセス

  • JR佐倉駅南口よりちばグリーンバス 大崎台五丁目下車 徒歩10分





平河館(ひらかわやかた)は、千葉市緑区平川町にあった日本の城。

歴史

治承年間、千葉常胤の家臣平河種次が築き、その後、代々千葉氏の属城として子孫が城を守ったと伝えられる。永正8年(1511年)8月、里見氏の属城となり、さらに天文年間(1532-55年)、北条氏に攻められて落城し、廃城になったと伝承されている[31]

構造

平川カントリークラブの西にあり、現在、城跡には皇太神社が祀られている。土塁が神社境内をめぐり、腰曲輪が谷津に面した台地の腹部に設けられている[32]

アクセス

  • JR外房線 土気駅下車 徒歩43分


師戸城は、千葉県印西市師戸にあった日本の城。

歴史

築城年代、城主などについての資料は少ないが、「臼井家由来抜書」によると、鎌倉時代末期には臼井城の支城であり、臼井四天王の1人として師戸四郎が居城していたと伝えられる[33]。師戸と臼井が密接な関係にあったと推定される。戦国時代になると、原氏の支配するところとなった。

天正18年(1590年)、豊臣勢によってこの城は滅亡し、戦死者を葬ったという野の墓が近くに残されている。

構造

城郭の遺構は、昭和40年代に入って一部破壊されたが、大部分が残っている。雄大な空堀と土塁によって、4つの郭を確認できる。南側には腰郭があって、水神が祀られている[34]


加曽利城は、千葉市若葉区加曽利町にあった日本の城。

歴史

鎌倉時代に千葉常胤の孫、千葉成胤の居城であったと伝わる。成胤は、「源平闘諍録」において加曽利冠者成胤の名で登場し、結城浜の戦いで活躍したことで知られる。

かつては、千葉郡道場北にあり、時宗の道場が置かれていたという[35]

このほか、成胤の居城についての伝承は、加曽利町西部の夕霧城(現在の加曽利中学校付近)にもある。

構造

「探訪日本の城」に加曽利館は高伝寺の境内に所在していたと書かれている[36]が、それ以外の書物には記載が見られず、謎の多い城である。高伝寺の参道沿いにマウンドを持った地形がみられるが、土塁なのか、古墳なのか、よくわからない。








昔、松崎村の名主の家の奉公人に「お鶴」という男勝りの働き者がいた。ある田植えの日、主人が「今日の暮六つ(午後6時ころ)までに千把の苗を植えられたら婿をもらってやるし、植えた田をお前にやる」と言った。お鶴は一生懸命やったので、暮六つより早く終わりそうであったが、見回りに来た名主がこれを見て驚き、約束通り田を取られては困ると、まだ早い時刻なのに暮六つの鐘をついてしまった。お鶴は落胆して急死した。そして、その夜、お鶴の植えた田は陥没して池になってしまったが、これが千把ヶ池である。

また、別の伝承としては、千把の苗を植え終える直前、自分の力を自慢して股覗きに太陽を見て、「私の勝ちだ」などと言った瞬間天罰を受けて死んだというものもある。

概要

村田町東方の字野際にあったが、平成通りの延長工事に伴い、令和3年(2021年)3月に現在地に移転した。祭神は、天照皇大神大日要貴命豊受皇大神月夜見命の4座である。

創建由緒については、3つの伝承がある。1つは、日本武尊命東征のとき、現在の市原市八幡の飯香岡八幡宮でご飯をいただいた際、「東日光神籏然たり」と言い、その場所に該当するという説である。2つ目は、源頼朝が飯香岡八幡宮に立ち寄った際、岸辺を歩きながら東の方を見ると、青竜の旗が勢威を振起するのかのようにはためいており、そこで治承4年(1180年)9月9日、この地に神明神社を勧請したという説である[37]。3つ目は、永禄年間に大暴風雨があり、高潮が村田川をさかのぼり、村内の家屋はすべて消失したが、神社だけが毅然と残ったという。村人がその訳を神主に問うと、「神明なり」と答えたので、村社として勧請したものとする説である[38]

なお、3説目に言う永禄年間というのには疑義があり、すでに永正3年(1506年)に泉福寺を創建した日眼は神明宮の社僧だったと言われている。

天明3年(1783年)、暴風雨のため社殿が流出したが、小さな社殿が再建された。嘉永元年(1848年)に建立されたのが、移転前の社殿である。

祭礼は、陰暦9月9日であったが、昭和47年(1972年)から太陽暦の10月9日と改めた。現在は、10月の第一日曜日となっている。

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大柳館
千葉県
大柳館
大柳館
天守構造 なし
築城主 不明
築城年 不明
主な城主 上総千葉氏
遺構 土塁、堀
指定文化財 なし
位置 北緯35度36分14.7秒 東経140度7分49.2秒 / 北緯35.604083度 東経140.130333度 / 35.604083; 140.130333座標: 北緯35度36分14.7秒 東経140度7分49.2秒 / 北緯35.604083度 東経140.130333度 / 35.604083; 140.130333
地図
亥鼻城の位置(千葉県内)
亥鼻城
亥鼻城
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概要

高津館は、藤原時平の娘と言われる高津姫の居館であったとの伝承がある。

菅原道真が九州で死んでから、藤原定国、時平、保忠など藤原氏一族関係者が7人もこの世を去り、それは道真の祟りであると思われた。そこで、時平の妻と高津姫は京を離れ、船に乗って東へ下った。やがて、下総の久々田(現在の習志野市鷺沼付近)に上陸し、三山(船橋市)の二宮神社に落ち着き、道真の霊を弔った。高津姫は、高津に移ってここで一生を終えた。高津の地名は、姫に由来すると言われる。

一方、近くに妙見社があることから、この館は千葉氏系の土豪の支配拠点だったのではないかとの説もある。

構造

二重堀と呼ばれる堀、二本の土塁などが確認できるが、破壊が著しく、郭を確認することは難しい。

  1. ^ 松山城 御城印
  2. ^ 高森良昌・椎名幸一 『東総の城郭と居館跡』 修英社 P139
  3. ^ 府馬清 『房総の古城址めぐり 下巻』 有峰書店新社 P25
  4. ^ 高森良昌・椎名幸一 『東総の城郭と居館跡』 修英社 P134
  5. ^ 千葉城郭研究会 『図説 房総の城郭』 図書刊行会 P144
  6. ^ 八日市場城 御城印
  7. ^ 高森良昌・椎名幸一 『東総の城郭と居館跡』 修英社 P130
  8. ^ 高森良昌・椎名幸一 『東総の城郭と居館跡』 修英社 P135
  9. ^ 千葉城郭研究会 『図説 房総の城郭』 図書刊行会 P146
  10. ^ 高森良昌・椎名幸一 『東総の城郭と居館跡』 修英社 P135
  11. ^ 府馬清 『房総の古城址めぐり 下巻』 有峰書店新社 P31
  12. ^ 高森良昌・椎名幸一 『東総の城郭と居館跡』 修英社 P135
  13. ^ 『千学集抜粋』
  14. ^ 『日本城郭大系6』 新人物往来社 P57
  15. ^ 高森良昌・椎名幸一 『東総の城郭と居館跡』 修英社 P125
  16. ^ 府馬清 『房総の古城址めぐり 上巻』 有峰書店新社、p35
  17. ^ 高森良昌・椎名幸一 『東総の城郭と居館跡』 修英社 P123
  18. ^ 『飯高村史』
  19. ^ 高森良昌・椎名幸一 『東総の城郭と居館跡』 修英社 P121
  20. ^ 飯高砦 御城印
  21. ^ 千葉城郭研究会 『図説 房総の城郭』 図書刊行会 P142
  22. ^ 高森良昌・椎名幸一 『東総の城郭と居館跡』 修英社 P118
  23. ^ 府馬清 『房総の古城址めぐり 上巻』 有峰書店新社、p100
  24. ^ 千葉県教育委員会 『千葉県の中近世城館』 戎光祥出版 P79
  25. ^ 千葉城郭研究会 『図説 房総の城郭』 図書刊行会 P142
  26. ^ 天神砦 御城印
  27. ^ 府馬清 『房総の古城址めぐり 下総国』 有峰書店 P148
  28. ^ 千葉県教育委員会 『千葉県の中近世城館』 戎光祥出版 P84
  29. ^ 府馬清 『房総の古城址めぐり 下総国』 有峰書店 P150
  30. ^ 『日本城郭大系6』 新人物往来社 P100
  31. ^ 府馬清 『房総の古城址めぐり 下総国』 有峰書店 P166
  32. ^ 『日本城郭体系6』 新人物往来社 P154
  33. ^ 府馬清 『房総の古城址めぐり 下総国』 有峰書店 P131
  34. ^ 『日本城郭大系6』 新人物往来社 P94
  35. ^ https://www.city.chiba.jp/shimin/shimin/kohokocho/documents/27sdemaesimokiroots.pdf
  36. ^ 日本アートセンター 『探訪日本の城』 小学館
  37. ^ 千葉市史編さん委員会 『千葉市南部の歴史』 千葉市教育委員会、p126
  38. ^ 『千葉縣千葉郡誌』
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